今日は熊野寮のことについて書こう。
こちらは鉄筋コンクリート作りの一見校舎と見まがう立派な建物だが、学生の自主管理のごたぶんにもれず、建物のまわりや内部は廃墟化しているらしく、廃墟ファンとおぼしきサイトに熊野寮探訪記なるものまであるほどだ。しかし、そんなのは大学の自治会室や部室、学生寮というものを知らない人にとっての驚きであれ、少しでも知ってる人間ならひとり暮らしの男の四畳半の汚さとあまり変わって感じないものだろう。
もっとも、最近の学生は好んで木造モルタル建築のアパートには入らず、小奇麗なマンションに入るらしいから、ましてや学生寮なるところは敬遠されるのかもしれない。
熊野寮にはじめて泊まったのは、1968年頃ヒッチハイクで南下した折だった。当時はジャズ喫茶を地方都市の中の中継地点として、情報も知り合いもそこで作りながら旅を続けたものだった。
そして、京都に到着したぼくたちは(そう、当時同棲していた女と一緒の旅だった)「ブルーノート」や「しゃんくれーる」などのジャズ喫茶、「みゅーず」や「六曜社」などのカフェ、平安神宮や南禅寺などの寺社をめぐりながらその宿泊先として熊野寮に泊めてもらったのだった。
いまでも、そう変わらないと思うが当時、京大もましてやその学生寮も立て看や、垂れ幕で埋め尽くされていた。実際、熊野寮もたしかバリスト(バリケード・ストライキ)でロックアウト(封鎖)されていたと思う。
なにしろ、学生運動、全共闘運動がさかんな頃で、全国の学園に革命の燎火が広がっていた頃だ。
しかし、寮生はフレンドリィだった。女連れの自分達と同じ年頃のぼくら(ぼくは当時、新宿のフーテンだった)をこころよく泊めてくれたのだ。
これには、感謝した。なにしろ、それまでヒッチで南下してきたボクらはひろった車の運転手さんに泊めてもらったのはいい方で、公園のベンチ、植え込みなどがベッドだったから……。
だから、だだっぴろいホールのような熊野寮の一画で濡れた小鳥のように翼を寄せあってぼくらは眠ったのだった……。

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