現在でも、何かをするにつけて方角を気にする人は少なくないでしょう。
例えば、寝る時に北枕を避けるとか。特に多いのが、東北を「鬼門」だとかと言って忌み恐れたりとか。
現在では迷信だと一笑に付されるようなこうした「方除け」も、昔は科学のひとつとして真剣に信じられていた時代もありました。それが日々の生活や建築などだけでもなく、政治にすら影響を与えていた時代もありました。
近代以前の京都も、そうした「方除け」の影響を受けているのです。
いや、むしろ。
遷都された当初から平安京は、風水や陰陽道などに基づいた設計や街造りが行われてきた都市だったのです。
平安京を造る場所も、風水思想に基づいて選ばれています。
京都に古くからある寺社仏閣などの中には、元々は「京の都(特にその中心にある御所)を霊的に守護するために創られたと」いう施設が実は結構多いのです。
特に、平安京を遷都した桓武天皇はその生涯で、早良(さわら)親王と他戸(おさべ)親王という2人の弟をはじめ、何人もの人を権力闘争で葬ってきた人物です。そのため、多くの人々の怨念に怯え続け、自分の心身を霊的に防御することに必死になっていました。平安京の設計や街造りにも、桓武天皇のこうした思いが強く反映されたのです。
以上のことは、風水や陰陽道、平安京の歴史などに詳しい方々の中には、ご存知の方も多いでしょう。
今回紹介する大将軍八神社もそうした「方除け」「霊的防御」のために造られた施設のひとつです。
大将軍とは、大陸伝来の陰陽道の星神・方位神の一人でもあり、さらには
八坂神社などでも祀られているスサノオ神とも同一視されるようになった神様でもあります。
大陸伝来の神様と日本古来の神道の神様とを習合した強力無比な神様に、平安京の東西南北を守護してもらおうと造られたのが、大将軍社なのです。
大将軍社は東西南北の方向に、つまり4つ造られたそうですが、今回紹介するのはそのうちの「西の大将軍社」だった、「大将軍八神社」です。
シリーズ第3回でも少しだけふれたことがありますが、今回は改めて、より詳しくふれたいと思います。