私の個人的な趣味で始めたこのシリーズも、ようやく20回を迎えました。
ネタも、写真のストックもまだまだたくさんあるので、今後もこのシリーズは続きますよー。
今回も
シリーズ前回に続いて、京都・清水寺の夜間拝観に行った時の記事です。
清水寺の門前として有名な三年坂と、今回見つけた面白いお地蔵さんを紹介します。
三年坂はもともと、清水寺の子安の塔に向かう安産祈願の坂ということから、「産寧坂(さんねいざか)」と呼ばれていたそうです。それがなまって「三年坂(さんねんざか)」になったそうです。
大同2年(807年)、3年(808年)にできたので、「二年坂」「三年坂」と名付けれられたという説もあります。
ウィキペディアの「産寧坂」の項目によれば、以下のように解説されています(以下、引用)。
>産寧坂(さんねいざか)は京都市にある坂。三年坂(さんねんざか)とも呼ばれる。 東山の観光地として有名である。 狭義には音羽山清水寺の参道である清水坂から北へ石段で降りる坂道をいうが、公式には北に二年坂までの緩い起伏の石畳の道も含む。 二年坂を介して北にある八坂神社、円山公園、高台寺、法観寺(八坂の塔)と南にある清水寺を結んでいるため、観光客が絶えない。
沿道は土産物店、陶磁器店、料亭などが並ぶ。
文化財保護法に基づき重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
幕末の明保野亭事件の舞台である。
(引用、ここまで)
この三年坂には、「ここで転ぶと三年以内に死ぬ」とか、「転ぶと寿命が三年縮む」などと言い伝えがあることでも有名です。
私のようなどんくさい者にとっては、要注意の場所です。
「京都妖怪紀行」シリーズでここをとりあげるのには、もうひとつ理由があります。
有名な妖怪研究者の一人である小松和彦氏などの話によれば、かつての清水寺・三年坂とその周辺は一種の「魔所」とか「異界」のような場所だったそうです。
ここには元々、都の外にある「葬送の地」があったとされています。
また、遺体処理や葬送などを行う「坂の者」と呼ばれる人たちも住んでいたそうです。
そのためか、「平清盛が鵺(ぬえ)という妖怪を対峙し、その遺骸を三年坂の崖に埋めた」という言い伝えも残っており、大正期までは「鵺塚」と呼ばれている場所もあったそうです。
もっとも、現在では鵺塚がどこにあったのかを知る人は、地元の方でもまず居ないそうです。
かつてこの地が「異界」だった面影は、今ではほとんど見られなくなり、
清水寺に残るいくつかのいわく付きスポットのみが、当時の闇を体現している、と言われていますが。
それでも今回は、この地をとりあげます。