必殺仕分け人?
「仕分け人」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。ここのところのニュースを確認している人は知っていることでしょう。簡単に言ってしまえば、予算として申請したものの中に無駄がないかどうかをヒアリングして、その事業についての判断を下すというものです。事業仕分けという作業の中で、その仕分けを担当する人たちを「仕分け人」と呼んでいるわけです。
これに近い作業というのは、もちろん毎年行われていたわけです。それぞれの省庁が予算をもらうためには、それなりに説得力のある理由が必要です。予算案を作成する場合には、それぞれの必要性などに応じて検討されるものです。この作成の多くに官僚といわれる人たちが関わります。国家公務員で、そうした事務作業を専門にする人たちだと考えればいいですね。一方でたとえば国家予算などは国会で審議されることになります。国会で審議するのは、当たり前の話ですが政治家たちです。つまり国の方向性は政治家が決めていきながら、その具体化は官僚が行うというのが、これまでの日本という国だったわけです。
ところが民主党に政権が代わり、行政刷新会議を組織し、事業仕分けとなったわけです。今は後半ということで、すでに前半は終了していますが、ここで注目されたのがかつてのように官僚が省内で話し合いを行うのではなく、ある意味では多くの人の目にさらされたわけです。それは官僚の常識や、省庁の常識ではなく、世間の常識を当てはめたいとの意図もあったように思えます。それは私たち一般の人たちから見ると、これまでと違って事業の内容がわかると同時に、バランスを考えながらなのでしょうが、比較的大胆に廃止や見直しがなされているために、評価する声が多いわけです。内閣支持率も上がり、特にこの部分を評価する声があるわけです。
それでもこの仕分け人の評価というのか、判断というものについては、やはり賛否両論があります。あまりに簡単に、そして一刀両断に判断してしまうように報道などでは映るので、必殺仕分け人などと呼ばれるのです。それは時代劇のドラマにイメージがつきまとい、そこに小気味良さのようなものがあるのかもしれません。それでも私は個人的には、彼らを必殺仕分け人と美化するのには違和感を感じます。それは民主党としては、自分たちの政権公約、つまりマニフェストの実現のためにどうしても財源が必要だという、お家事情がはたらいているのが見え見えでもあるからです。無駄を省く目的の多くは、自分たちの政権公約実現のための財源確保だからが、透けて見えてしまっているのです。もう少し本音を隠してやれないのかな、というのが私の思いです。
この事業仕分けというやり方は、今回が初めてではありません。地方自治体ではすでに行われているやり方です。国や地方自治体がどんな方針で、どのようにお金を使おうと思っているのかがわかるという点ではとってもいいことだと思います。事実、昨日の仕分けでも、ある省が外部団体に委託して作った広報誌を政治家に配布しているというものに、億単位の額が使われているのには、仕分け人同様に違和感を感じるために、その予算の凍結をするのには共感できると同時に、こうしたことが続いていくことで官僚たちはその外部団体へ天下りしていく素地ができるのだと納得もするのです。お金が人と人とをつなぎ、それによってさらに関係性が強まるのが長らく続いてきた世界なのだろうと、こういうものを見ていると理解できます。それがこれを契機に改まるのも、この事業仕分けの利点かもしれません。
無駄を見直すのはとってもいいことです。ただ先にこれだけの財源確保ありきでは、本末転倒ですよね。そのあたりは冷静に見守る必要があるのが、今回の必殺仕分け人ですね。

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