今朝、『はやく起きた朝は…』という番組を見ていました。そのオープニングの話題が今が佳境の甲子園でした。高校生のハツラツとしたプレイがどうして、多くの人たちの心を打つのだろうというのです。もちろん理由は一つではないでしょうが、主たるものに彼らが純粋に、無心にボールを追いかけているからなのでしょうね。もちろんそれは野球にかぎったことではないのでしょうが、夏の甲子園が前述のようなものを象徴しているのでしょうね。冬ならサッカーの国立、そしてラグビーの花園にも同様のものが存在します。
もちろん高校野球などは「純粋に、無心に」と書くと、「?」という人もいるでしょう。甲子園に出場しているチームの中で、特待生の一切存在しない高校があるのでしょうか。さらにそれなりに実績を上げた選手には、その後の人生を左右しかねない道が保証されることもありますし、野球の場合、そこに少なからずお金が動くことも事実です。その意味で「純粋に、無心に」に「?」が入り込んでしまうのかもしれません。
それでも目の前の白球を追っている選手たちに、どれほどの打算があるかを考えていただければ、やはり高校球児に「純粋に、無心に」を当てはめても問題ないはずです。もし彼らの中に打算が生じているように見えるとしたら、それは選手自身ではなく、指導者の勝つための理屈が入り込んでいるからでしょう。象徴的なのは、ヤンキースで活躍している松井選手の5打席連続敬遠ですね。彼のバットを振らせないことで、勝つことを選んだわけです。この判断は当然のことながら、バッテリー自身ではなく、勝つためにとチームに指導者が選択させたわけです。もちろんトーナメント方式ですから、負ければ次にはつながらないのです。勝つために必要な選択をするのは仕方ないことです。それでも考えるのです、あの投手は、バッテリーは松井と勝負をしたいとは思わなかったのだろうかと。松井の打率だって、100%ではないはずです。攻め手はあったはずです。今年で言えば、本塁打記録を塗り替えた大物打者を抱える大阪桐蔭が、甲子園には来られませんでした。勝負したいという本音が、チームの中でワガママとなるのか、私には分からないのですが、勝負させてみたいですね。
勝負である以上、勝敗が決します。それは必ずしも努力に比例するものではないかもしれません。だからこそ無心に、純粋に白球を追う姿に心動かされるのかもしれません。汗も、涙も美しいと感じるのです。甲子園も終盤です。今年も一つでも多くのガッツポーズを目に焼き付けておきたいものです。
今日からやっと数日、夏休みです。義父の墓参りに岡山に出かけてきます。

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