ちょっと国語の教員らしいことです。今、2年生は坂口安吾の「文学のふるさと」という評論文を読んでいます。
「赤頭巾」の話、どのように記憶していますか。おばあさんの見舞いに出かけた赤頭巾が、狼に食べられてしまう、というあたりは共通ですね。その後はどうでしょう。おそらくは満腹になって寝込んでしまった狼を見つけた狩人が、おばあさんと赤頭巾を救い出し、代わりに腹に石を積めて、井戸に落としてしまうというところまでついてくるでしょう。
ところがシャルル・ペローの原作では、あくまでも狼に食べられるところで話は終わり、彼はそこに心打たれるというわけです。童話とはそもそも教訓やモラルを持つものであるが、赤頭巾は例外であるというわけです。彼はここに美を感じ、そこに文学の「ふるさと」を見出すわけです。
ここまで来ると、感性に寄りかかる部分が多いのですが、ピンと来るタイプと、どうしてもそれを許せないタイプとに大きくは二分できそうです。それが混在する集団の健全性を好ましく思いながら、授業をしています。
物語の世界には、私たちの期待感というものが前提としてありますが、現実はそんな期待をあざ笑うかのようなものが転がっていて、それを現実と認めて行かざるを得ません。童話に当然のように用意されている「ハッピーエンド」をそんな簡単に望んではいけなくて、どこかに私たち自身の努力に裏打ちされる何かがなけれはならないのかもしれません。
赤頭巾のように、可憐で、思いやりがあり、悪の入り込む要素がなくても、不運なことに狼に食べられてしまうこともあり得るという想像力と、現実を知る必要があります。それでも私たちは何かを期待し、自分の可能性を信じて、その飛躍のために努力するわけです。すべての努力が報われるわけではありせんが、努力ない限り達成できないものがあることを知り、歩いていくべきなのでしょう。
現実は小説よりも奇なり、ってね。

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