2006/2/28
トリノオリンピックが閉幕しましたね。最終的なメダルの数は、日本には荒川静香の金メダル一枚と言うことになりました。ドイツが獲得数では一番でした。四年に一度ですから、ここで結果を出すことや、まして連覇をするのは実力もさることながら、それ以外の要因も含めて、本当の意味で幸運だったと言えそうです。もちろん昔から言われるように、運も実力のうちですね。それだけのものを引き寄せる準備は必要ですし、何よりもオリンピックの舞台に立たねばなりません。選考の過程で不運に泣かされた人もいましたし、一度は逃げていった切符をしかと、握りしめることに成功した人もいました。ボブスレーの女子が順位はともかくオリンピックの舞台に立てたことを何よりも喜んだのは、あきらめかけた切符を手にした喜び故なのでしょうね。
私が以前、担任していた生徒に、かつてのオリンピック選手であった本田武史と同じリンクに立っていた教え子がいました。今でも時折、メールが届くことがあります。彼は今はスケート靴を脱ぎましたが、それでも県の連盟に残り、最近は採点官などをやっているそうです。本格的にスポーツをやるとなかなか足は洗えないものだよと、私が話していたことが実感できたと、そのときのメールに書いていました。その彼は学校では水泳部に所属して泳いでいて、週末だけスケートの練習をします。スケートの練習には氷が必要ですから、当然のことながら氷のある場所へ出かけていくことになります。関東圏からだと長野・群馬くらいまで出かけるそうです。ここに冬のスポーツの壁があります。
施設さえあればどこでもできるような競技か少なく、特別な施設をその競技のためにわざわざ作るものが、冬のスポーツには圧倒的に多いのです。スノーボードのハープパイプにしても、ボブスレーや滑降、モーグル、エアリアルのコースにしても、あれだけのものを作る労力、積雪を想像してみてください。そのためにどうしても経済的負担も大きいのが、冬のスポーツだと言えそうです。
こんなことを聞いたこともあります。ジャンプ競技は、恐怖心が芽生える前に体に教え込まないとできるようならないと。確かにそうかもしれません。長野オリンピックで使用されたジャンプ台を夏場には下から見上げる場所まで近づくことができますが、あの上から降りてきて、しかも飛んで、着地をするなんて人間業ではないと思ってしまいますから。モーグルやエアリアルの場合は、トランポリンの延長で考えることができるようですが、ジャンプはそう言うわけにはいかないようです。
そうしますと、冬のオリンピックに出場していた選手というのは、大きく二つのハードルをクリアした選手と言えるかもしれません。一つは経済的な負担、もう一つは生まれた風土から来るハンディで。冬のスポーツはその意味で、どの人にも平等に出場の機会が与えられたとは言い難いですね。最初から出場の機会を奪われている人もいるのが、冬のスポーツのようです。さてあなたはどの舞台に立ちたいと考えていますか。そしてその舞台に立つ上でのハードルは何でしょう。もしそのハードルが自分の努力で越えられるものであるのなら、あなたは当然のこととして、そのハードルを越えるためのあらゆる努力をしなければなりません。舞台によっては、努力ではどうにもならないハードルが用意されている場合もあります。そこを見極めるのも、舞台に立つ上での条件になるでしょう。そしてあなたが望む舞台に立ち、あなたはその舞台で光り輝くべきです。

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2006/2/27
時折、歌の歌詞に思いを乗せていますが、比較的新しいものを選んでいる気がします。今回は少し古めのものを紹介しましょう。もしかするとあなたのご両親が知っている曲かもしれません。泉谷しげるという人です。ご存じですか。最近は何となく文句の多いじじい、という風情です。あの飾らない姿に、個人的には憧れというか、うらやましさを感じたりもしているのですが、なかなか彼のようには振る舞えないでしょう。その彼の『春夏秋冬』という曲です。
人のために よかれと思い 西から東へ かけずりまわる
やっとみつけた やさしさは いともたやすく しなびた
春をながめる 余裕もなく 夏をのりきる 力もなく
秋の枯れ葉に みをつつみ 冬に骨身を さらけ出す
今日ですべてが終わるさ 今日ですべてが変わる
今日ですべてがむくわれる 今日ですべてが始まるさ
難しい現実と、それでも今日に期待している部分に共感を覚えたのでしょうね。以前はよくこれをカラオケで口ずさんでいました。まあ、最近はカラオケに行くこともほとんどないので、忘れていたのですが、ふと思い出す機会があり、改めて歌詞を眺めてみたのです。やはり私たちが日常の中で直面する問題を取り出し、それでも今日という日と対峙していますよね。まさに今の私たちの姿なのでしょうね。
哲学の世界で、時間論が話題になることがあります。時間は流れるものでしょうか。日本では古くから「ゆく河の流れは絶えずして、また元の水にあらず」に象徴されるようによどみなく流れゆくものとしてとらえる傾向にありました。その感覚を疑うことなく、引き受けている人も少なくないでしょう。人生を直線定規のようにとらえて、十六歳の自分は人生の中ではこのくらいのところかな、なんて想像したりします。これも基本的には前述の流れる時間の中においての位置取りとなります。日々、目盛りを進めていくことになるわけです。それはあなたの目盛りよりも、私の目盛りの方が遙か先を進んでいるようですね。
ところがよくよく考えてみると、私たちは常に「今」に乗っていますよね。過ぎ去った過去でも、これからの未来でもなく、今にいるのが私たちです。だとすれば、過ぎ去る時間に目を向けるのではなくて、今とどのように向き合うかを考えるべきなのかもしれません。今日がどんな日であるのか、それを大切にするべきなのでしょう。流れゆく時間の意識の中で、どうしてもおろそかにされてしまうのが今ではないでしょうか。それでも今の延長にしか私たちの未来はないのです。その意味で、今にこだわっていくのは当然のことなのです。今日がどんな日なのか、すべてが終わる日なのか、始まる日なのか、それをきっと私たち自身が決めるわけです。
季節は巡り、再び春が訪れようとしています。獨協での四年目も終わろうとしています。あなたの過ごす今日はどんな日でしたか。明日と呼ばれる今日を、明日、あなたはどのように送るつもりですか。今日に乗っている感覚、実感してみてください。

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2006/2/25
トリノオリンピックの直前の日本のメダル獲得の予想は、アメリカの予想で銅二つというものでした。これに対して、マスコミはずいぶんと楽観的にたとえばスノーボード、モーグル、スピードスケートなどでメダル獲得を予想していました。ところがご存じの通りにどの競技もメダルに届かないという表現からも遠い結果でしたね。岡崎朋美の四位というところが明るい材料になるようでは、やはり問題です。
今回は新聞の社説などでも過熱するマスコミ、特にテレビの中継に批判的な声がありました。過去の一番いい成績の部分だけを意識的にクローズアップして、それがオリンピックでも出せたならメダルも夢ではない、というような向きで、報道され、イヤが上でも期待が高まるわけです。その高まった期待の分だけ、結果が伴わなければ落胆も大きくなります。しかもその過熱報道を当の本人たちが知らないわけはなく、妙に意識して、空回りをしてしまうなどと言うこともあった気がします。
四年に一度のオリンピックは、スポーツ選手にとっては特別な意味を持つものです。毎年、行われる大会と質が異なるわけではなく、注目度も含めて、選手たちの意識が高まるのでしょう。様々な競技の選手が一堂に会する場というのも、おそらくここを除いてはなく、そこで広がる人の輪も魅力かもしれません。但し、その分だけ気負いとなることもありそうです。今回の日本選手の多くは、その落とし穴にはまり、本来の力を足しきれずにトリノを後にすることになったのではないかと考えています。スノーボードの成田兄妹のように四年後を考えられる選手は、これを糧にできますが、冬の競技はとかく身体に無理な負荷を掛けることが多く、それほど選手生命は長くない気がします。多くは最初で最後のオリンピックとなる中で、不本意な成績に終わったとしても、今の自分にできる精一杯が発揮できたのならいいのかもしれません。
期待された選手が、結果として次々に振るわない成績の中、メダルが一つも獲得できないのでないかという懸念が生まれてきました。最後の期待はとうとうフィギュアスケートの女子に一心に託されることになったのです。おそらく相当なプレッシャーとなったはずです。それまでに誰かがメダルを取っていたなら、彼女たちに掛かる期待はずいぶんと和らいだはずですから。それが誰もがその期待には応えきれない中で、彼女たちにだけ結果を求めるのは、正直に言えば酷ですよね。それでもやはり期待せずにはいられなかったのです。そして昨日の朝、その期待に応える結果が出ましたね。ショートプログラム三位の荒川静香が、フリーでスルツカヤ、コーエンを押さえて金メダルを獲得したのです。
荒川が滑り終わった時点で、後ろに控えている選手は同じ日本から出場の村主章枝を含めて三人でした。その村主が荒川を抜けず、その時点でメダルは確定し、残るはその色という状況でした。アメリカの十六歳はやはり若さが出て、五位のまま残るは女王スルツカヤを残すのみとなりました。正直、スルツカヤの方が上、今回はロシアのフィギュア全種目制覇もやむなしという考えていました。ところが気負いからか、疲れからか、硬さの残る演技に加え、後半には転倒までしてしまったのです。この時点で荒川の金メダルを確信しました。アジア勢では初のオリンピックフィギュア金メダルだそうです。九二年のアルベールビルでの伊藤みどりの銀メダル以来になります。一度は不振から引退にまで追い込まれた選手があきらめずに咲かせた大輪の花です。待望の金メダルでした。

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2006/2/24
先月、選択科目を決めるに当たっても話したことですが、あなたは自分の将来を消して残ったもので選ぶことだけは避けるべきです。嫌いなものを消して、残ったものが好きなものではありませんし、選ぶという作業からもかけ離れた行為ですよね。ところが現実にはそういう選択しかできなかったという人もいるのかもしれません。それを続けていくとどうなるのかを考えてみましょう。
一九九○年代はバブル経済の崩壊後、空白の十年と呼ばれることがあります。土地と株に価値を見出し、膨れあがっていくのですが、もともと実体のないものですから泡のように弾けてしまえば、後には何も残らなかったということから、バブル経済などと言われ、バブルが弾けて後にはその後処理に銀行に公的資金が注入され、経済は冷え込んだのです。その影響を一番に受けたのは、当時の学生たちでした。企業の収益が上がらないためにどうしても人件費の削減をしなければならず、いわゆるリストラをしながらも、学生たちの新しい雇用機会も奪われたのです。つまり就職したくても就職できない学生たちが大勢出たのです。そのためどんな仕事に就くかを考えるのではなく、どんなことをしてでも仕事に就くという状況に陥ったのは仕方ないことなのかもしれません。
その結果、先日、野村総合研究所が発表した「仕事へのモチベーションに関する調査」に見られるようなことが起こったのは当然といえば、当然のことなのかもしれません。上場企業の二十代、三十代の正社員千人を対象に行われたアンケートです。「現在の仕事に対して無気力を感じることはあるか」という質問に、実に七十五%の人がよく、または時時そう感じると応えているのです。さらに「三年前と比較して、職業人として成長した実感があるか」という質問は、実感があるという人よりも、実感がないと応えた人の方が多いのです。そして仕事に社会的使命感を感じるかという質問には三割あまりが感じないと応え、これも感じる人を上回っています。
仕事を選べず、とにかく就職することを目的化してしまった弊害が、まさにこの結果だと言えそうです。ここに応えた人たちの中には、本音として自分のしたい仕事ではなかったというものが見え隠れしている気がするのです。ここに先ほどの消去法の限界が見えてくるわけです。選べないから、とりあえず手に入るものを手にするという形では、手にしてみたものの、やり甲斐を感じられずに無気力になるような事態にもなるのです。そう言う中では当然のことながら、自分が成長するという感覚もなければ、社会的な使命感を感じることもないわけです。やはり自分で主体的に選ぶと言うことが重要だと言えそうです。
もちろん社会の動向だとか、自分の適性だとか、様々な要因で必ずしも自分の望んだポジションが手にはいるとは限りません。それでもやはり自分がきちんと自分と向き合って、自分の将来展望をして、仕事までたどり着きたいものです。そのことでしか納得しない自分がいるはずです。そのためにきつくても、とことん自分と向き合って、この先、自分はどうしたいのか、どんな自分でありたいのかを問い続けねばなりません。妥協的に、今の自分で手に入るものを安易に選んでしまうわけにはいかないと、少しだけ先を歩いている私は実感を持って感じるのです。だからこそ、改めてあなたへのお願いなのです。今は苦しくとも、自分から逃げ出さずに、数年先の自分の姿を見通して、今の自分をこれからどのようにしていくべきかを考えてほしいのです。まだまだこれからですよ、あなたは。

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2006/2/23
月曜日の夕刊に小さく訃報の記事がありました。その小ささが、今のその人と、その人のしてきたことを象徴するようでした。それでも彼女の死は、私には少なからずショックを与えました。この「キックオフ」の最初のページを飾った詩人の茨木のり子さんのがなくなったのです。
「ぱさぱさに乾いてゆく心を ひとのせいにするな みずから水やりを怠っておいて 気難しくなってきたのを 友人のせいにするな しなやかさを失ったのはどちらなのか」茨木のり子さんの詩「自分の感受性くらい」だ。
いら立つのを近親のせいにするな、初心が消えるのを暮らしのせいにするな。そう畳みかけて詩はこう結んでいる。「駄目なことの一切を、時代のせいにはするな わずかに光る尊厳の放棄 自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」
詩神ミューズは時に鬼の姿もとるらしい。茨木さんが初めて詩を投稿する際、ペンネームを考えているとラジオから長唄「茨木」が聞こえた。茨木童子という鬼が切り取られた片腕を渡辺綱から奪い返す話だ。「あ、これ」と、すぐにその名を頂戴した。
「『自分の物は自分の物である』という(鬼の)我執が、ひどく新鮮に、パッときたのは、滅私奉公しか知らなかった青春時代の反動かもしれない」戦中戦後の混乱で失われた青春をいとおしむ初期の代表作「わたしが一番きれいだったとき」が生まれたのはその七年後だった。
吉本隆明さんは茨木さんを「言葉で書いているのではなく、人格で書いている」と評していた。ピンと伸びた背筋とか、人にこびぬ気品とかは、本来は人そのもののたたずまいのことだ。だが茨木さんの詩からは、常にそのような人とじかに向き合うような香気が立ちのぼっていた。
できあいの思想や権威によりかかりたくない−「ながく生きて心底学んだのはそれぐらい」そう記す。「倚りかからず」を表題にした詩集が異例のベストセラーになったのは七年前のことだ。いつも人々が見失った言葉を奪い返してきた女性詩人の自恃の七十九年だった。
彼女は戦中派です。ですから物心着いたときから「お国のために」という枕詞で育ちました。それが夏のある日、突然、それは大きな間違いで、空から降ってくるように民主主義が自分の周りに広がり、戸惑ったそうです。今まで自分が正しいと信じてきたものが根本から崩され、それまで無縁であったものが自分に覆い被さり、それを受け入れざるを得ない中で彼女は青春を過ごします。そしてもっとも多感な時期であったからこそ、感じる違和感を詩に託していくのでしょう。それが「私が一番きれいだったとき」です。
信じ込んできたものがまったく無意味であったことを分からされる瞬間というのは、私にも経験がないので、どれほどのショックなのかは想像の域を出ないのですが、自分の中心にあったものがポッカリと喪失する感覚なのでしょう。それまで強要しかされてこなかったのに、翌日からはあなたが主役です、と言われても、何をどうしたらいいのかも分からないでしょう。そういう激動の時代を、ある意味では時代そのものを糧にして詩という表現方法で自分を見つめ続けた人であったのでしょう。死は誰もが避けて通れませんので、残されたものは彼女の死を悼み、彼女の姿勢から学ぶことにしましょう。
彼女の詩を二編紹介しましょう。
わたしが一番きれいだったとき 街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから 青空なんかが見えたりした
わたしが一番きれいだったとき まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で わたしはおしゃれのきっかけを落してしまった わたしが一番きれいだったとき だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて きれいな眼差だけを残し皆発っていった
わたしが一番きれいだったとき わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで 手足ばかりが栗色に光った
わたしが一番きれいだったとき わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた
わたしが一番きれいだったとき ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった
わたしが一番きれいだったとき わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん わたしはめっぽうさびしかった
だから決めた できれば長生きすることに
年取ってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
ね
ぱさぱさに乾いていく心を ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを 友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを 近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを 暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を 時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分でまもれ
ばかものよ
この叱責が、前を向いて歩いていく私たちに対するエールであることを忘れずにいてください。私たちは私たち自身で守らねばならないものがあります。それを誰かに委ねるわけにはいきません。あなたの感受性、しっかり自分で抱えましょう。

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