2006/1/31
私がラグビーの審判に出かけていることは知っていますよね。それはもちろんラグビー部の顧問であるからなのですが、顧問のすべてが審判をしているわけではありません。顧問の中には自らはラグビーという競技の経験のない人もいるからです。たしか今年の高校サッカー選手権の優勝チームの監督は、自分では選手経験がなかったですね。選手でなければ指導者になれないわけではないという典型的な例でした。同様に、ラグビーの世界でも、様々な理由、きっかけがあって、選手としての競技経験がない人がいて、そんな人が顧問をすることもあります。そういう人はあまり審判はしませんね。もちろんすべてではありませんがね。そんな中、私には審判をやらないかという声がかかったのです。
県公認、東日本公認と審判もレベルが上がっていきます。実際の試合を吹く実技と、ルールブックに基づく学科というか、筆記試験とが課されます。東日本公認の上は日本協会公認となり、俗に言うトップレフリーです。もちろん審判をやるからにはトップを目指そうという人と、顧問を続ける一つの条件のように審判資格を持つ人とがいます。埼玉の高校の先生で、現在、自ら望んでトップを目指している人はいないかもしれません。埼玉で行われる試合数故に、審判をせざるを得ない中でやっているという人がほとんどです。なぜトップを目指さないのか、理由は明確です。自分のチームが見られなくなるからです。トップになればなるほど、副審も含めて担当する試合数は増えます。その間、自分のチームを見ることが出来なくなります。顧問が先にあって、審判という順番が逆転してしまうのです。そのジレンマ故に審判としての評価を上げていくことをやめる審判も少なくありません。私の周りにも、実力はありながらトップに行くことをやめた先生たちがいます。上がりたくても、なかなか評価が上がらない人からしたら贅沢な話ですが。
私は埼玉県内の審判としては、どちらかというと異端児的なところがあります。顧問で審判をしているのは、みんな公立の先生なのです。私は土曜日にも授業があるので、割り当てる方はいちいち私の予定を確認する煩わしさがあるのです。それでも審判のきっかけを草加高校の先生がくれました。当時の県の審判委員長はあまりいい顔をしなかったことを今でも覚えていますが、その先生の推薦で東日本公認を取得したのです。
そして今回、年明けの審判研修で私は新たな役割を担うことになりました。審判を続けながらですが、若手の育成をすることになったのです。埼玉県が試験的に導入するレフリーコーチに任命されたのです。県内で五人なのですが、それなりに実績のある人ばかりの中で、少し意外な人選です。これも今の審判委員長のはからいです。今の委員長は、私が東日本公認を取得したときに、私のアドバイザーであった人です。その人から、審判としてトップに上がっていくよりも、育成の方が向いているのではないかと言われたのです。それはそれで私への客観的で、冷静で、正当な評価であると私も判断し、私に期待してくれるのであれば、それに応えようと快諾しました。実はさらにその先があり、春からは関東協会のアセッサー研修にも加わることになりました。アセッサーというのは審判の採点をする人です。その資格があるのかを確かめるべく参加することにはしました。
私たちは社会で生活する以上、何らかの役割を担う必要があります。もちろん自分で選んで、社会貢献が出来ればいいのですが、時に具体的に役割が望まれる場合があります。その役割が自分の今後につながると、是非、あなたにも引き受けてほしいものです。

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2006/1/30
コンピュータを使い始めたのは、私が教員になったばかりの頃です。そのころはまだウィンドウズ搭載前だったので、基本的にはC言語に近い状態で作られていて、いちいち指示をきちんと与えないと次に行かないものでした。その指示を間違えると次の画面には進めないのです。それに比べて、ウィンドウズになり操作は飛躍的に容易になりましたが、その代わりに私たちへの注文も増大した気がします。そしてミスをすると、ピシッと指摘されます。場合によってはヒステリックなエラー音までついています。しかも時折、こちらのミスではなくて、あちらの、つまりコンピュータの都合でフリーズしてしまうこともあります。何時間も掛けて作り上げたデータが、コンピュータのフリーズと共に消失するのです。まさに凍り付く瞬間でもあります。最近は少なくなりましたし、まめにバックアップを取ることで対策をしていますが、これまでに数回、背筋の凍る思いをしたことがあります。
ウィンドウズというシステムも毎年のようにバージョンが上がり、処理能力を上げる一方で、消費者の購買意欲をかき立てることに余念がありませんね。95や98といった時代は既に過去のもので、後継機種へと次々と移っていきます。ところがコンピュータの能力が上がっても操作する私たちの能力が上がるわけではありませんから、どこまで使いこなせているのかと言うと、疑問の残るところですよね。そして使いこなせない領域が広がれば広がるほど、エラーの確率も上がり、結果として私たちがコンピュータを使っているのか、コンピュータに私たちが使われているのか、分からなくなるのです。なんだか便利も過ぎると、不便に変換されてしまうそうです。
コンピュータゲームなどをやっていると、クリアのたびにそれなりのメッセージが出て、いい気分にさせてくれることがありますが、日常的に行うコンピュータ操作ではそんなことはありません。前述の通り、ミスだけを手痛く指摘されます。ミスなくできても決してコンピュータが「よくできました」と褒めてくれることはありません。ある一連の操作をまったくミスなく操作が完了したときにはほめられたいものですね。
そんなことを考えていると、日常生活もどこか見直す必要がある気がしてきました。私たちもとかく人のミスを厳しく指摘しますが、当たり前のことが当たり前に出来たときにそれを褒めるという感覚はあまりないですね。私も仕事柄、あなたに様々な注意を与えます。それは時にあなたには承伏しがたいものもあるかもしれません。生活状態、試験結果、身だしなみ、遅刻など挙げると様々です。こういう部分に何かしら問題があると、どうしても指摘しなければなりません。反対にそういう部分に何も問題がない人は、指摘もされない代わりに、褒められることもないですね。褒めるとどうなるのかなと考える時もあるのですが、さすがに高校生になって日常生活も、成績も問題がないので「よくできました」シールを貼るというわけにもいかないので、そこで私も思考もストップしてしまうのですが。それでも何かの折に、そういうメンバーには感謝の気持ちを表そうとは考えています。そして何かと私にあれこれと指摘されるメンバーについては、その一つひとつをすべて網羅的に指摘するつもりもなければ、その都度というわけでもなく、出来る限り必要なものを、必要なタイミングでと考えています。と同時に、そういうメンバーにこそ出来たときには褒める、賞賛する言葉を掛けたいと思うのです。たまには褒めてあげたいのです。

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2006/1/28
新聞の夕刊に次のようなコラムを見つけました。同じように感じている人も少なくないかもしれませんね。
「このプログラムは不正な処理を行ったので強制終了されます」不 正だと?おれが何をした。そういえば、この前の何とかの「共有違 反」ての、ありゃ一体何だ。
「悪いことしたらおまわりさんに来てもらうよ」と言われて育った おれたちは不正、違反と言われると、心臓が止まりそうになるよ。 確認するが使っているのはおれで、使われているのがおまえだよ な、パソコン。「少少不手際がありましたので、いったん閉じても いいですか」とか言ってもいいだろ。たとえおれの操作がまずかっ たとしても。
そもそもこの変な日本語、どこから来たんだ?基本ソフト「ウィン ドウズ」の母国アメリカじゃあ「illegal operation」 それで不正 な処理かって、そのまんまだろ。分かりにくけりゃ意訳しろと学校 で習ったぞ。
「スタックオーバーフローのためスレッドを停止」「ディレクトリ は存在しません」ここは外国か。それとも、わからんがデジタル世 界の異邦人ってことか?
言葉遣いについてはソフト大手のマイクロソフト社も「パスワード を忘れてしまいましたか」という言い回しを「お確かめください」 に変えるなど、考えてくれているんだが。
外国の言葉を丸のみにして、日本という国は急速に発展したって な。それはわかるが明治の人たちは骨があった。Society=社会、L ove=恋愛に始まり「野球」「打者」いい訳語だ。気の利く翻訳をつ けてもらって、早く日本になじめよ、な、パソコン。
これはカタカナが、コンピュータ世界では当たり前になっているけれども、その内容が分かりにくいし、適切さを欠いていると指摘したものです。確かにこういう用語が使われると、その世界を遠くに感じますよね。パソコンに使い慣れていない人は、それでなくてもおっかなびっくり、パソコンに向き合っているのに、キーを押した途端にエラーメッセージが出てきたら、ドキッとしますよね。それに適切に対処できればいいのですが、場合によってはそこに書かれたメッセージの内容そのものが、ちんぷんかんぷんという場合が少なくないのです。この内容をいちいち調べながら対処しているような余裕があるわけもなく、もちろんこれでパソコンを嫌いになりますよね。
こんなことを考えていると、ふと頭に浮かんだことがあります。たとえばラグビーというスポーツがなかなか日本人に馴染まない理由の一つにルールの複雑さがあります。しかもそこで使われる用語が難しいのです。そのためなかなか理解されず、人気が出ないのかななんて考えます。同じようなことが、勉強の場面でもあるのかもしれません。漢文の冬休みの課題を返した際にも話しましたが、「訓点を付けなさい」という指示に従わなければ、試験ではエラーです。では訓点とは何かいえば、右側にカタカナで送りがな、左側に返り点を付けることです。その双方がそろわないと、次に進まない、つまり採点対象とならないのです。数学でも、理科でも他の教科でもやはりそれぞれに必要な用語があり、それを理解しないとどうしてもエラーとなってしまいます。エラーが繰り返されれば、やはり嫌いになってしまいますね。そうなる前にまずは用語の理解に努めましょう。

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2006/1/27
年を取るほど一年が過ぎるのが早く感じるというのは、心理学の世界で表題のように言うのだと、「トリビアの泉」で取り上げていました。というわけで私の方が、あなたよりも一年が過ぎるのを早く感じていると言うことになりますね。この感覚は案外、大事なことかもしれないと、今日の話題にしたのです。
トリビアの解説によれば、たとえば六歳の子どもにとっての一年と、六十歳の人にとっての一年では、同じ一年でも相対的な長さは異なるというのです。単純計算で六分の一と、六十分の一ということですね。数字の上でもそうなのですが、感覚としても同様のことがありそうです。六年しか生きていなければ、その時々のことは初めてのことも多く、毎日が刺激的で、印象にも残るため一年という時間が長く感じます。六十歳にもなれば、およそ一通りのことは体験し、目新しいことはあまりないため、どうしても単調な日々となり一年という単位でも、そう長くは感じないのでしょうね。
これをあなたにも意識してほしいのです。あなたは心の完成期にさしかかっていて、何気ないことでも気持ちや感情を揺らすことが少なくないはずです。その時々の気持ちや感情を大切にしてほしいのです。友達との何気ない会話や遊び、ドラマに夢中になったり、アイドル歌手に熱中したりする経験が大切です。もちろんクラブ活動や勉強に傾倒できるなら申し分ないのですが、それでないからダメだという気はないのです。とにかく自分の感情のバロメータがどのくらいまで振れることができるのかを、あなたの年代の時に知っておく必要があるのです。自分の中で熱くなる感情というものを知っておく必要があるのです。
私自身は高校時代にラグビーと出会い、これに夢中になり、今の仕事も含めて将来が見えてきました。あの頃は本当に夢中で、一日一日が刺激的でした。ノートにあれこれとサインプレイやフォーメーションなどを書いては、試合のプランニングを考えるのに飽きることはありませんでした。あの三年間が決して長かったとは思えません。印象としてはあっという間でした。それでも考えてみると、一日の過ごし方も、一週間の生活もそうたいした変化もないはずなのに、それでも毎日、事件に満ちていた気がします。事件といったって、そんなに大それたものではなく、自分たちの中だけのトピックスのようなものですよね。片思いのあの子と話ができたとか、練習でこんなことができるようになったとか、授業中にこんなことして先生に叱られたとか、そんなことが毎日、自分たちの事件だったのです。事件だったということは、それなりに心の針を動かしていたということです。
今のあなたももしかするとそんな日々を送っているかもしれません。小さな事件を積み重ねている人は、これからもそんな日々を過ごしてください。そんな小さな事件を自分の中に抱えることもなく、毎日を何の波風もなく過ごしている人は、もう少し生活の姿勢を変えてみましょう。自分の感情の針がどのくらい振れるかを知ることで、この先、あなた自身の感情のコントロールもできることになります。
私の生活は、あなたに比べれば事件は少ないのですが、それでもこの仕事柄でしょうか、いろいろとあって感情の針はあまり振りませんが、私なりに楽しんでいます。あなたと変わらないくらいギュッと詰まった一年を過ごしているつもりです。まだジャネーの法則が当てはまらないように、アンテナ高くして生活していようっと。

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2006/1/26
センター試験と雪という組み合わせが定番化しそうな、ここ数年の流れの中、二日間の試験が行われました。テレビ報道で大きく取り上げられているとおり、今年は少々問題のある実施となったようです。新課程に移行として初めてのセンター試験として、注目されました。いくつか変更点はあったのですが、なんと言っても一番大きな変更はリスニングの導入です。これをどのように実施するのかが注目されましたが、一斉放送では音響設備が整っていない会場などでは実施できないと言うこともあり、個別音源となりました。受験生個々人に音源を渡し、実施することになったのです。そのためにセンター試験の検定料も値上げしたほどです。
ところがその音源の不具合が相次いだのです。その日のうちに四百人を超える受験生が再試験となっています。その後、試験会場によっては対応に問題があったということも判明しています。新しい試みの場合、どうしてもトラブルや不具合は仕方ないにしても、全国で五十五万人もの受験生を抱える試験である以上、やはり万全を期す必要があったように思われます。
このセンター試験は、国公立大学志願者にとっては一次試験の意味を持ち、私立大学受験生にとっても四百を超える大学で合否判定を行う試験です。高校や大学を会場として実施されるのですが、試験監督者に徹底していない部分があり、試験時間を間違えたり、携帯の着信音が鳴ったりということもあったようです。あってはならないことなのですが、毎年、どこかで起こっているトラブルですね。規模が大きくなってしまったが故の、緊張感の欠落なのかもしれませんね。
センター試験は受験後に学校などで自己採点会を実施します。今年も三年生がおよそ百人、自己採点を行いました。このデータを元に大手予備校が国公立大学の二次試験に必要な学力偏差値の基準を算出したり、私立大学の合格ボーダーラインを引いたりするわけです。その結果が二十六日に進路指導部に届くことになっています。この結果によって二次出願校の変更をする場合もあれば、出願そのものをやめてしまうような場合もあります。私立大学については、センター試験で合格できたかどうかによって、二月の一般入試にも影響することになります。その意味でこの自己採点という作業は大切なものになります。およそ二年後、あなたも受験することになるかもしれませんね。
センター試験の場合、受験生が多いこともあってか、合否に平均点というものが当然のことながら影響します。試験の難易度を毎年、一定にするのは殊のほか難しく、作る側はそういう気持ちで作るのですが、結果は必ずしもそうなるとは限りません。平均点をおよそ六割程度にというのが一つの目安ですが、国語だけを見ても九七年度に七割を超えた直後からこの八年間、六割に達することはありませんでした。これが問題が難しいのか、受験生のレベルが下がっているのか、判断が難しいわけです。平均点が上がった年と、下がった年とでは、その後の出願に大きな違いが出ます。いわゆる受験生心理と呼ばれるものなのですが、それを逆手に取るくらいの気持ちがないと、なかなか受験で自分の志望校に受かるのは難しいかもしれません。それだってこれまで積み重ねてきた自信の上にはしか出てこない結果です。まずは今の自分の位置を確認しましょう。そこからどこまで上がっていきたいのかを考えるのです。その物差しが明日の模試となるはずです。

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