2005/7/9
数年前に「総合的な学習の時間」というものが学校カリキュラムの中に設けられました。正直、あまり評判のいいカリキュラムではないため、いつまで続くのだろうかという声も聞かれます。教科に特化した、つまりは偏ってしまって、点から線に結びつけられなくなりつつある今のあなたたちを、どうにかしたいという意思の表れであったのです。そしてその意図は悪くないなと賛同する向きはあるのでしょうが、現実にそれではそれを行いましょうということになると、戸惑いは大きいのです。教科横断的に年間を通じて取り組みましょう、というのは、一度できあがってしまっている今の学校のスタイルにはなじまないからです。それでもとりあえずは始まりました。
中学では一年生で田植えをしながら、二年生はブリティシュヒルズ、三年生はボランティア活動などをしましたね。高校でも継続し、一年生では環境問題、二年生は平和学習、三年生は進路学習というものになります。というわけで今年は一年間かけて環境問題を考えていくことになります。その導入については既にホームルームの時間に行いました。
そもそも環境問題などと言うものを考えねばならない理由から始めなくてはいけません。私たちの生活環境がこのままの状態で問題がなければ、そんなことを考える必要がないわけです。ということは、このままではどうやら困ったことになるのか、既に困ったことになっているということになります。まずはそこに目を向ける必要があります。
私たちの生活がものであふれかえるようになった辺りから、いろいろなことが囁かれ始めます。特に戦後の高度経済成長期に、経済発展と開発に邁進した日本は、その代償として様々な公害を抱えることになります。ここ数日、死亡報告が相次いでいるアスベストなども同様の根かもしれません。しかもこういう問題が国内のみならず、世界的な広がりを見せ、最終的には地球そのものに打撃的な損害を与えていると言うことまで明らかになるわけです。オゾンホールの問題がそれです。私たちが高度な文明社会を構築し、その恩恵を享受する裏側で、地球そのものの存亡に関わる事態が進行していたことになります。地球そのものが危機的状況にあるということは、その地球に生きる私たちの生命そのものが危ういということになります。と、ここまで来たところで気づくわけです。このままではまずいし、このままではいずれ限界が来ることを。
そこで先進国を中心に、ある程度、本気で地球環境を考え、対策を講じる必要性を実感します。そして昨年の京都議定書の発効となったわけです。ところがこの議定書の発効の効力を半減させてしまうのではと思われる事態もあります。ここまで来ても、アメリカは地球そのものよりも自国の経済を優先させる決断をしたからです。地球あっての私たちという発想をなくすと、目の前の豊かさがいつまでも続くのだという錯覚に陥ります。目に見える繁栄を信じ、目に見えぬ地球の外の穴から目をそらすことで問題は解決するでしょうか。そう言うことを正面からとらえねばならない時期に来ているようです。
ただ目に見えぬ地球の外の穴にばかり目を向けていても、問題の解決にはなりにくいものです。私たちの身近なところに目を向けて、何が地球や私たちの住環境を傷つけているのかを考えるところから、まずは始めましょう。大きなものにいきなり手を出すと、その大きさに圧倒され、あきらめてしまうものです。壊すのも徐々にだったのですから、治すのも長い目が必要です。その意味でまずは自分の足下の環境問題からですね。

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