2005/7/4
ここのところ親族を傷つけるイヤな事件が相次いでいますね。埼玉では母親が子どもをマンションから投げ落としたり、子どもが両親を殺害し爆破をしたり、弟が兄を刺し殺したりしています。どうも親子、兄弟という家族関係が難しくなってきているようです。いつから、どのような理由でそうなってしまったのでしょう。社会学でも修めないと分からない分野かもしれません。
毎年、高校三年生の「古典講読」の授業で、二学期に『源氏物語』を読みます。ここで親子の離別のシーンがあります。明石の君という女性と、主人公の源氏との間に産まれた姫君を、紫の上の養女とするシーンです。紫の上とは、源氏の最愛の女性なのですが、二人の間には子どもがいないこともあり、明石の君の身分がそれほど高いものではないこともあり、引き取ることにするのです。そしていずれは天皇に嫁がせたいという希望を持っていたのです。その別れのシーンで、「心の闇」という表現が使われます。これは勅撰和歌集の二番目に編纂された『後撰集』の中の次のような和歌に基づくものです。
人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな
親は子どもを産むことで無償の愛というものの存在を確信するのではないかと考えています。つまり何者にも代え難いものを手にするということです。そして子どもはその無償の愛を全身で受け止めて、愛というものが何であるのかを身を以て知るのだと考えるのです。それは平安時代でも同じであったことを教えてくれる歌ですね。物語の別れのシーンでは、まだ幼すぎて状況を把握していない姫君が、母親に一緒に牛車に乗ることを促すのです。そこにまた別離の悲しみが募ります。それを見た源氏は自分の罪深さを自覚するのです。
人間のみならず、生物にはすべてある種の「愛」のようなものが存在すると思われます。それは時に人間の目からは、残酷に映る「愛」の形もあるかもしれません。たとえばペンギンは必ず二つの卵を産みます。一つは保険で、どちらが保険になるかというと後に残った方です。先に産まれた方に生存権が与えられます。一つが卵から孵ると、もう一つを温めるのをやめるのです。何か不測の事態で、卵が一つダメになってももう一つが残るという仕組みになっています。それでも孵った雛は両親に手厚く保護され、育ちます。私たちから見たら、みんな同じに見える雛も鳴き声で判別がつくのだそうです。生物それぞれに育て方、子どもの数もまちまちですが、それでもそこに「愛」が存在すると言えそうです。
もちろん人間にもこの「愛」が存在すると信じたいです。ですが、最近は心の成長を伴わないまま、大人となり、母性や父性という感覚を持てずに子どもをもうけてしまった場合があるようです。そうなると子どもは自分の生活を妨害する存在としか映らず、しつけと称して虐待をし、自分の所有物であるかのように子どもの人権を侵害する事態になるのでしょう。家庭は社会の最小単位ですから、社会全体が子どもたちに寛容ではないと言えるのかもしれません。子どもたちの将来は学力で保証されるものではありません。人間としての豊かさによって、保証されるはずです。その豊かさの原点は、やはり家族の「愛」なのです。親が子を、子が親を、兄が弟を、弟が兄を傷つけるということを、もっと真剣に受け止める必要がありそうです。学校でも、家庭でも、あなたはあなたとしてここにいるだけでそれで十分なのだと、まずは確認することから始めましょう。

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