2005/7/2
何かを集めることは好きですか。私は小学生のころ、なぜかカマキリの卵に魅せられまして、冬の草むらに分け入ってはせっせと集めていました。しかもそれを自分の机の中にしまい込んでいました。春のある日、私が学校に行っているときに私の部屋にカマキリの赤ちゃんが大量発生したのです。それをもちろん私ではなく、母親が見つけました。その驚きはそれは大変なものだったでしょう。私の机の中から次々とカマキリの赤ちゃんがはい出てくるのですから。あきれ顔の母親は、あまり私を叱らなかった気がします。
それ以後、カマキリの卵を超える変な収集はありませんが、それでもその時々でいろいろなものを集めるのが好きですね。しかもなかなか捨てられないという性格で、人から見たらどう見てもがらくたのようなものであふれている気がします。それって何だろうと考えていたら、こんなコラムを見つけました。
気がつくと子どもの部屋に石ころがたまっている。学校の帰り道で拾ってくるのだろう。遠足や合宿の「おみやげ」もある。握りしめたときに「これだ」と感じる相性が年を追うごとに変わるらしい。次第に大きく重くなる石が、心と体の軌跡となって並ぶ。
紀元前の縄文人は翡翠や琥珀の勾玉を集めた。最近の研究で、北海道の遺跡から出土した琥珀のほとんどがサハリン産であることがわかったという。日本の産地は岩手県の久慈市が有名だが、北の大地の交易路は遙か遠くまで伸びていた。そこに求める人々がいるから、はるばる宗谷海峡を渡って来た宝物である。
人はなぜ石に魅せられるのだろう。森林の樹液が二千万年から一億年も地中で眠り続けて琥珀ができる。古代人はその深く温かい輝きに胸を躍らせた。五千年後の今、彼らが残していった貴石の美しさに私たちは同じように心を打たれ、太古の貿易取引に思いをはせている。石には時間が封じ込められているのだ。
子どもが誰に教えられたわけでもなく、せっせと石を拾うのは本能なのかもしれない。情報や物はネットで簡単に手に入り、古くなればどんどん捨てていく。パソコンは三年もすれば旧式になる。「変わらない」ものを手にしたい気持ちは大人だって同様だ。
どうやら私がカマキリの卵を集めるのも本能のなせる業だったのでしょうか。その当時、カマキリの卵は私にとって、琥珀と同じ価値を持っていた気がします。それが孵って多くのカマキリの赤ん坊が産まれることなんて思いもせず、なかなか見つからない卵を見つけたときの喜びを、せっせと自宅に持ち帰っていたのです。それがどんな価値を持っているかは、周囲が決めるのではなく、その人自身が決めればいいのだと思います。純粋に集めることの喜びを見出したいですよね。それがいずれ何かの価値を持つかもしれないなんて考えながら、集めるなんて収集家とは呼べないですね。子どもはみんな、純粋な収集家なのかもしれません。
あなたには自分だけの楽しみとしての収集は何かありますか。それは周囲が価値を認めているものですか。それはいずれ色あせてしまうようなものですか。いつまでも自分の中で輝きを失わないような何かを手にできるといいですね。それは何も物でなくても構いません。私のこのクラス通信、私の収集の一つといってもいいかもしれません。

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