2005/5/31
私は何かが始まる前日が好きです。どうなるのだろうという、まさに期待と不安とが入り交じる感覚があり、それをワクワクと称するのだろうなと感じています。このワクワク感が大好きなのです。私のような仕事は、その時々にそういう場面が実に多く用意されているのです。入学式に始まり、卒業式に至るまでの一年間で何かが始まる前日がたくさんあります。林間学校の前日も例外ではありませんでした。みんなの高校に入って初めての大きな行事ですからね。
前日が好きな理由の一つに、始まってしまうと終わりが見えてしまうことが挙げられるかもしれません。始まる前は、始まることばかりを考えます。終わりを感じてはいません。ところがひとたび始まってしまうと、その瞬間から終わりの方がより鮮明に見えてくるのです。終わりが見えてしまうと、一抹の寂しさが自分の中にわき起こってきます。だから前日が好きなのです。林間学校の前日もワクワクしていましたね。
教室を出たところで、普段は見えないあなたの様々な顔、表情、人間関係というものが見えます。これが行事の一つの教育効果です。高校が始まり二ヶ月弱、私なりに三十八人の人となり、つまり彼、彼女はこういう人というものをつかんだように感じています。それを行事を重ねことで、より深く知る機会になります。いろいろな意味で、違った顔が見えてくるのです。特に高校生の場合、日々成長を遂げているので、このわずか二ヶ月の間にも成長していて、それだけでも違ってくるのに加え、教室から解放されることで別の顔も見えてくる、私たちの仕事は思いこみが一番やっかいなものになります。だから人の印象は固定せず、常に更新と修正を可能にしておく必要があります。
そんなことをあなたも心がけてくれると嬉しいです。彼はこういう人だから、彼女はこんな子だからと括ってしまうと見逃してしまうことがたくさんあります。今回の林間学校でもそうではなかったですか。彼がちゃんとAコースを歩ききるなんてとか、彼女がこんなにみんなを引っ張る力があったんだとか、彼がダンスをちゃんと踊るなんてと感じた場面があったはずです。そういう仲間のいい面を、しっかり更新して、今までのマイナスのイメージを修正してあげましょう。それが人間関係を良くしていく大切な発想です。私たちはどうも自分の悪いところには目をつぶり、人の悪いところは許せないという傾向があります。ところがそれでは人間関係は良くなりませんし、集団がまとまることはありません。是非、良いところを評価していく集団、良い部分を引き出せるクラスを目指してほしいのです。そのきっかけ作りとしては十分に価値ある林間学校でした。
学校というのも立派な社会です。学校生活は社会生活です。社会というのは、自分の思い通りにならないことも多いですし、個人よりも社会集団を優先しなければならない場面があります。それでもそれを支えるのは個人です。人間関係を良くしておく必要があるのは、ここにあります。個人がその質を高め、信頼を周囲から得、自分の所属する社会集団に居場所を確保することで、集団は求心力を持ち、有機的に作用し、集団そのものが質を高め豊かになるのだと、私は考えています。そのために私はあなたから信頼を得たいと、自分のできる範囲で努力をしているつもりです。あなたが同様に私から信頼を得る努力、仲間から信頼を得る努力をこれからもしてくれたら幸いです。そんなことを感じた三日間でした。あなたの林間学校を聞かせてください。

0
2005/5/30
高校に入学して初めての大きな行事ですね。中学では入学式の翌日から、日光に連れて行かれて、オリエンテーション合宿を行いました。覚えていますか。あの合宿で、人間関係が作られましたね。宿泊行事の一つの価値はここにあります。寝食を共にすることで、密な人間関係が構築されることになるわけです。もちろんこういう行事を楽しみにしている人ばかりではありませんね。どうもみんなと一緒というのが苦手な人もいます。そんな人にはちょっと憂鬱な行事だともいえます。そんな人にとって、どんな意味があるのでしょう。きっとそういう人は、このバスの中で意味なんかないよって心の中でつぶやいていますね。そう感じていることが、実はもうそれで意味のあることでもあるのです。好き、嫌い、得意、苦手、そういうことの自覚が、自分を方向付けることになるからです。
教室を代表する学校の授業は、おもしろくてもおもしろくなくても(といってもほとんどの人にとっては「おもしろくない」に属していますが)受けるものとしてとらえています。受けるものであるということは、実は受け身でいいわけです。この受け身の姿勢では見つからないものがあります。だから机の上の勉強の中だけで、自分の将来を探すと消去法になる人が少なくありません。だっておもしろいものがなければ、よりましなものを選ぶしかないのですから。数学と国語なら、どちらかと言えば国語かなぁ、という人は、自分を文系だと言いますし、歴史がどうしてもダメだという人は何故か、自分を理系だと思い込もうとします。そんな選択でいいのでしょうか。でもそんな選択肢しか自分の中に用意できないのですから、仕方ないと考えている人は大勢いますね。
そこでやはり学校としては、いろいろな経験の場を用意し、あなたが自分と出会う場を作るわけです。しかもそれは普段のあなたなら、あまり積極的にはしないであろうことを用意します。放っておいてもやることを、学校がわざわざ用意する必要はないからです。学校の行事が、案外、何でこんなことを、というものが多いのはそういう意味を持っているのです。だから最初に書いたように、実はそういう行事を楽しみにしていない人にとっての方が、行事の価値は高いともいえるわけです。体育祭は苦手だけど、文化祭ならまだ何とか自分の出番があるかななんて考えてみてほしいのです。ほとんど人がどうしてって思うマラソン大会だって、今年こそは上位をと虎視眈々と狙っている人もいるのですから、行事はおろそかにできないのです。
登山だって登ってみて、もう二度とこんなことしないと思う人と、あの爽快感は悪くないぞと感じる人とが出ます。これも自分との出会いですね。キャンプファイヤーのクラスの出し物、なんだかんだといいながらダンスになりました。これもリズム感がない人には憂鬱の種です。でもみんなにくっついて、何とかお茶を濁す程度でも十分です。それよりも気持ちの上での抵抗感よりも、楽しむことを拒否してしまうことの方が残念です。どうせならリズムに乗って、上手い下手というよりも楽しんでしまえという発想こそ、価値あることです。どんなものも自分の気持ち次第で、楽しくも憂鬱にもなるのですから。おそらくこのクラスの出し物の成否が、今後のクラスの行事に対する姿勢にも影響するでしょう。自分にできないものなら仕方がありません。それは結果の問題です。最初から拒否してしまっているのとは質が異なります。私もがんばってダンスを覚えます。死体役も張り切ってやります。自分に与えられた役割をこなすこと、悪くないですよ。楽しみです。

0
2005/5/26
さぁ試験が終わりました。来週にならなければ結果は返ってきませんね。返ってくるまでの、いわば執行猶予期間として林間学校は楽しみましょう。切り替えという発想は大切だと思いませんか。いつまでも終わったことを引きずっていると、結果として「今」を逃してしまうことになります。ですから試験のことをしばらくは忘れて、林間学校に気持ちを向けておく方が生産的です。
それはクラブなどでも同じことがいえそうです。成績が低迷すると、保護者からプレッシャーがかかり、クラブを辞めるという話を聞きます。中学時代に自ら経験した人もいるでしょうし、これからそういう現実に直面する人も出てくるかもしれません。しかしよく考えてほしいのです。本当に成績が低迷している理由がクラブなのでしょうか。確かにクラブをやることにより拘束時間が生じるわけですから、クラブをやらない人よりも時間に制約があります。私たちには同じようにしか時間が配分されていないわけですから、その使い道により自由度に違いが生じます。
そこでクラブをやっているから成績が低迷している、だからクラブをやっている時間に勉強をすれば、成績は向上するはずだという物理的、時間的な問題として、成績の低迷を説明する方向に向かうのでしょう。果たしてそうでしょうか。では物理的、時間的な問題を解消すれば、成績は上向くはずです。ということは現在、クラブをやっていない人は成績は低迷していないという論法になりますが、現実はそうではないですね。どちらかと言えば、クラブもやらず、何となく学校に来ているタイプになってしまった人たちは、さらに成績を下げる方向に向かっているようです。
勉強も成績も大切です。最低限のハードルをクリアしなければ、学校生活が保障されないという意味で、です。ところが私は自分の経験も含めて、こう思うのです。勉強や成績だけが私たちにとってもっとも大切なもので、学校生活のすべてではないのだと。私を教師という仕事に導いたのは、勉強ではなく、クラブという経験ですし、それに基づいた充実した学校生活でした。それを考えたとき、やりたいクラブを我慢して、勉強や成績を優先させることに、担任としては疑問を感じるわけです。獨協が成績至上主義で、すべての価値をそこにしか求めないのなら別です。むしろ様々なことに主体的に取り組み、自分の将来像を描き、その上で勉強や成績の価値を自覚することで、成績も伸びていくものです。たとえば教師になることを夢見て、とにかく勉強だけをして採用試験に合格した先生が、いい先生になれるかを考えてみてください。学校という場所の本当の価値も知らずに、先生になっても、その先生が生徒に何を語りかけられるでしょう。
つまり「今」だけでもダメです。しかし「先」だけ見てもダメなのです。問題は「今」と「先」とを同じ地平でとらえ、どう橋渡しをするかです。限られた時間の中で、自分の納得のいく成果を上げるためには、きっといろいろな工夫が必要です。その前提に、切り替えがあるのでしょう。勉強する時間、遊ぶ時間、一所懸命になる時間、少しのんびりリセットする時間、きちんと切り替えて、与えられた時間と真剣に向き合うことで、振り返ったときに充実した時間を自覚できるはずです。ここ数日、試験のための勉強に時間を取られました。これからしばらくはいわゆる勉強とは異なる、それでもいろいろなことを「学ぶ」時間になります。明日からの林間学校はそんな時間になるはずです。

0
2005/5/25
「先日」という言葉を聞いたことありますよね。私も不思議に思ったことはなかったのですが、それこそ先日「あれ」って思ったのです。察しのいい人は、何となくピンと来ましたか。「先日」って時間軸でどっちの方向ですか。戻りますよね。ところが「先」はというと、進んでいく前方ですね。辞書にあたる「前途・将来」と出てきます。不思議な言葉ですよね。ところが辞書をもう少しそれこそ先まで見ると、「時間的に前であること」とも載っています。用例としては「以前・昔」と出てくるのですから。使い慣れてしまっていたために、何の疑問も感じずに聞きもしたし、使ってもいたのですが、立ち止まって改めて考えると、考え込んでしまう言葉なのです。
この時間軸のねじれとでも言える表現はどのように生まれたのでしょう。以前、読んだものを思い出しました。それによると、この時間軸の変更は、明治時代に海外から、beforeとafterが入ってきてからだというのです。ここで「今」を基準にそれよりも前なのか、後なのかという感覚ができたようです。それでもいくつもの言葉が、それ以前の感覚を持ったまま使われ続けたのかもしれません。「先日」が、まさにそれだと言えそうです。
実はこういうものも文化という分野に属するものです。何を基準にものを発想するかが、そのまま言葉に反映します。古典作品を読んでいくと、確かに私たちと異なる感覚を確認することができますよね。今、きっとあなたを苦しめている助動詞などもそうですね。時制の助動詞、「き」と「けり」はどちらも過去でありながらも、使い道が明確に異なります。この感覚を私たちは現在、持ちません。自分が経験したものと、聞いたものとで使い分けるなんて感覚ないですよね。しかもこの過去の助動詞の上には、完了の助動詞が乗っかり「にけり」「てけり」なんて具合に文中に現れる。ところが現代語訳は、過去だけのもの、完了だけのもの、過去に完了が乗っかったもの、どれも「た」一語ですませてしまうわけです。せっかく平安人が使い分けたものを、私たちは使い分ける術を持たないのです。残念なことだと思いますよね。同じ日本語を使うはずなのに。
古来、日本人は歳月や人生を流れにたとえることをしてきました。「ゆく川の流れは絶えずして、またもとの水にあらず」という『方丈記』の冒頭部分が象徴的ですね。それはきっと私たちの手では止められないものだという感覚があるからでしょう。過ぎていくものという感覚は、松尾芭蕉の『奥の細道』の月日を旅人にたとえることでもよく分かります。過ぎゆくもの、流れゆくものとしての時間ですが、その中で私たちはどうしているのでしょう。実はいろいろな切り口があります。私たちの寿命は残念ながら、ハッキリとしません。ですが、どうやら私たちは自分は平均的だと考えて、その平均寿命から自分が今どの位置にいるのかを測ってみたりします。でもそれって仮定にしても、ずいぶんと乱暴ですよね。次にどう考えられるか、それは常に「今」に乗っているという発想です。明日はいつまで経っても、明日であり続け、昨日はどこまでも昨日なのです。そして私たちの足下に「今」が存在し続けます。そしてこの「今」という時間は、私たち次第で長くも短くもなる「今」なのかもしれません。「今」が楽しければ、楽しい時間はあっという間に過ぎ、苦痛な「今」は永遠に続くのではないかと思われるほど、長く感じるものです。
あなたの乗っている「今」はどんな時間ですか。この「今」を生かすも殺すも、きっとあなたの気持ち次第です。「今」を大切に、実りあるものとしましょう。

0
2005/5/24
高校での初めての試験が始まりました。昨日はどんな勉強を、どのようにしましたか。今日の試験を受けて、明日に向けての準備の手助けをしましょうか。これまでもホームルームで確認していることを、改めて文章化してみます。
ポイント1・目を信用しない
昨日、ひたすら教科書を目で追っていた人はいませんか。私は確かに日常では、情報の多くを目で得ています。そのために目を信用している傾向があります。ところが目は見たいものしか見ていないのです。気づけば見落としているものがたくさんあります。漢字などは点がいるとかいらないとか、そういう部分をつい見落としていることが、目にはあります。だから教科書を読んでいるつもりで、結局はただ眺めているだけという場合が少なくありません。どうせなら教科書は音読をしましょう。声に出して、耳に刺激を与える方が効果的です。語学系は特に音読の効果大です。英語の勉強は眺めていないでね。
ポイント2・手を動かそう
音読が終わったら、次は書くことです。手を動かすことで、最後に迷ったときには勝手に手が動いたりするのです。書いて覚えることの重要性を再認識しましょう。世界史や数学などは、自分用のポイントノートを作成すると、曖昧な部分が確認できるものです。これも手を動かすことの一つです。教科書とノート、参考書や資料集などを駆使して、自分用の試験対策ノートを作れたら、試験勉強はほとんど終わったも同然ですよ。私はこの作業を何よりも大切にしていました。
ポイント3・ポイントを絞ろう
試験勉強で大切なのは、限られた時間でどこまで曖昧な部分をなくすかです。だとするとポイントは絞っておく方がいいですね。端的にいえば、分かっていることは確認程度にし、曖昧な部分をしっかり確認し、分かっていない部分をどうするかなのです。分かっていない部分について、自分で確認するには限界があります。それにいつまでも時間を取られているのが、果たして効果的かです。本当は試験前になって分からないことがいくつもあることが問題です。問題ですが、現実ですから、その現実にどう向き合うかになりますね。分からない部分がある人は、その部分を捨てて、取れる点数を取っておく方が試験結果はましなものになるかもしれません。
試験直前にできることだけを簡単にまとめました。試験前だけで何とかしようというのが、そもそも虫がいいのだという本音はあるのですが、学生というのは概してそういうものだというのは理解できることなので、現実問題として書きました。但し、試験を受けながら感じていると思うのですが、日々の授業で理解していないことを試験前だけではどうしようもないのですから、やはり日々の授業をしっかり受けて、理解をしていることが前提なのです。次からは授業をもう少しちゃんと聞こうって、後悔してください。
学校の定期試験は、やはり日常の授業をどの程度、理解しているかというものです。試験範囲も決まっていますし、基本的には授業でやったものの確認です。だとすれば試験前ではなく、対策はもっと以前に立てておくべきだということが分かりますね。それをしないために二度手間になっている人たちを見受けます。勉強したくなければ、必要最小限ですむように工夫すべきですね。やりようはあるはずですよ。

0
1 2 3 4 | 《前のページ |
次のページ》