生死を分けるもの
漁船の転覆事故のことをご存じですか。八人が乗っていた漁船が消息を絶って、台風の影響で海が荒れていたこともあり、捜索が難航していたのです。その後に船長は救命ボートで発見されたのですが亡くなってしまわれ、生存者は客観的状況から考えると絶望視されていました。それが転覆した船から三人が無事に発見されたのです。もちろん衰弱はしていますが、三日間もほとんど飲まず食わずでありながら一命を取り留めたのは奇跡に近いものと言えそうです。未だ四人の乗組員が見つかっていないので、この事件というのか、事故は決着していないのですが、船を離れた人と船に残った人とで生死が分かれたのだとしたら、ちょっと皮肉ですね。
転覆したときの状況については、生存者の回復を待って事情が聞かれるのでしょう。消息を絶った際の海はそれほど荒れてはいなかったようなので、原因が何なのかは気になるところです。ただ転覆した船が沈まずに海上を漂っていたのは、かなり急激にひっくり返り、空気が船内に残っていたためだといわれています。だからこそ三人がそこで四日間を過ごし助かったようです。沈んでいればもちろん助かりませんし、空気が残りスペースを作ってくれなければ複数名が生存することも不可能です。その意味では助かるための条件が整っていたわけです。
私は二十年近く前に交通事故に巻き込まれたことがあります。対向車がセンターラインをはみ出してきての正面衝突でした。相手運転手は残念ながら亡くなりました。相手の車がおよそ八○キロ、私の車が四○キロでしたから衝撃は足し算をしてください。私は前歯四本と上あごの一部をなくしましたが、とりあえずは無事でした。就職したての私はひどい顔で教壇に立つことになりましだか、事故原因が私ではないために特に問題になることもありませんでした。この事故で私は自分の命というものを初めて意識したのです。結果的に私が助かる要因があり、相手にはなかったわけです。
それは私が新車を購入し、その車が割と頑丈であったことや、少し手前の信号に引っかかってそれほどにはスピードを上げていなかったこと、そのために私の車の方が衝撃に負けてくれたことなどです。もちろん別の可能性も考えるわけです、あの信号に引っかからなければそもそも事故に巻き込まれることはなかったのではないかなど。それでも事故に遭遇してしまった以上は、好材料を求めるしかないですね。その意味において、私は幸いにも命を落とさずに、今ここにいるわけです。
今回の転覆事故のように一方で助かり、一方で命を落とすケースなどを見ていると、この生死を分けるものっていったい何なのだろうと考えてしまいます。「運命」という一言で済ませてしまうには、あまりに重い結果ですよね。まだまだ自分の命というものについて考えるには若いあなたですが、どこかで向き合う日が来るかもしれません。
私は自分の事故以来、自分の命というものに目を向けるようになりました。そして一つだけ決めたことがあります。自分がいつ死んでしまうのかは誰にも分かりません。大げさに言えば明日はこの世にいないかもしれないわけです。だからこそ今できることは、今やっておくべきです。今できることを明日に延ばしてしまえば、そのことを後悔せねばなりません。今できることをやったのであれば、もし次の瞬間に死を受け入れねばならないことになっても、そういう後悔だけはしなくて済むのです。私はそういう生き方をしようと決めたのです。受験をしていくあなたは、受験当日に自分ができることはやったのだと覚悟して受験会場に入ることを意識してください。今日できるはずのことを明日に延ばしてはいませんか。今やるべきことを疎かにしていませんか、そんなことを自分に問うてみてください。

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