追悼碑のある庭のお隣の家を「ほうせんかの家」と名づけ開放しています。  ● 毎週土曜日  13時から17時まで。  ● 順次、お料理を作ったり、映画をみたり、イベントを組みます。参加をお待ちしています。  訪問される方は、当ブログの予定をチェックして、来てください。 尚、日程が合わない方は、事前に申し込んでみて下さい。誰かが、あなたの都合に合わせれるかもしれません。  お待ちしています。   ===⇒ ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ ⇒   .   .   .   .   .   .   .   .   . 「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」のホームページも 参照下さい 「追悼する会の来歴など」や、「震災時の事件について」詳しく、わかり易く紹介させて頂いています。是非、立ち寄ってみてください https://housenka.jimdo.com

2008/5/20

絹田幸恵先生永眠  絹田幸恵先生

去る2月24日、絹田幸恵先生が亡くなられました。1930年産まれの77歳でした。https://www.datadeliver.net/receiver/download.do?fb=e22167bf67ca479bb8facd8bcc5e9dac&rc=1ae520218d5842e889a8b0c69b97a488&fileId=8825523

絹田先生は、「追悼する会」の生みの親に当たる方です。荒川放水路(現、荒川)の歴史を調べるため、地域を長年聞き書きして歩いたなかで、関東大震災の虐殺事件に行き当たったのが始まりでした。(詳しくは、次回私どもの会報を掲載いたします。
又、当会では「絹田幸恵先生の思い出を語る会」を行います。

5月25日(日)午後2時から、京成八広駅近くの 集会所です。
参加希望の方は、お電話ください。詳しいご案内を差し上げます。
090-6563-1923(ほうせんか)電話に出れない事が、多いです。
お名前、電話番号など録音して下されば、追って連絡差し上げます。

また、絹田幸恵先生に、生前お話を伺った方が、ブログで詳しく報告して下さっています。是非アクセスして見て下さい。優しい先生の様子が 目に浮かぶような内容です。
ブログ「玉乗りする猫の秘かな愉しみ」です。
 
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2008/5/6

絹田幸恵先生を偲んで  絹田幸恵先生

荒川の河川敷で
      1994年在日女性同人誌「鳳仙花」投稿より      慎 民子
 私の住いは墨田のはずれ、荒川と隅田川に挟まれた一角にある。隅田川を背にして防災壁として立てられた都営住宅の7階である。東側にあるベランダの向こうに、墨田の3分の1程の地域を眺める事が出来る。
ベランダに立つと、左手より前方むこうへと斜めに高速道路が見える。その下に荒川がある。川自体は見えないのだが、数本の橋が姿を浮き出している。正面辺りが木根川橋だろうか、毎年9月、関東大震災時の韓国・朝鮮人犠牲者の追悼式が行われるのが、その橋のたもとである。


 出会ってしまったことの重みを、背負い続ける女がいる。絹田幸恵という。
 絹田は、足立区の小学校教員を病気のため6年前に退職した。20数年前、教員現役の頃、生徒の子どもたちに「荒川が人工である」事を伝える難しさを味わった。満々と川水をたたえ、広い河川敷を抱える荒川を、人口の放水路とは想像しがたいことである。どう伝えるのか、彼女は資料を探したが見つからず、自ら聞き書きを始める事にした。お年寄りから当時の話を聞くうちに、「川の歴史は人間の歴史であることに気が付き、心引かれた」という。「退職時「荒川放水路の話を本にしますからね」と生徒たちの前で約束したの、その時にはこんなことになるとは思いもしなかった」〜絹田の言葉である。
 荒川は1911年から30年まで19年の歳月をかけて作られた。当時の開削工事や土木工事などには、必ずといってよいほど朝鮮人の姿があった。その歴史を調べれば当然朝鮮人と出会うことになるだろうと、少しでも近代の歴史を知る者なら想像するだろう。しかも、絹田は、朝鮮半島の北部、威鏡南道で生まれ、2歳まで育つ経験を持つ。が、絹田は、放水路の歴史のことだけを考えていた。
 そうして、思いも寄らぬ朝鮮人の話に出会ってしまった。聞き書きを進めるうちに、ちょくちょく朝鮮人の話を耳にするようになった。
「堤防を作ったりする工事は、朝鮮人の人夫がやりました。よく昼になると、『お茶をください』と来ていました。大きなやかんに用意してあげました。4〜50人いたでしょうか、皆まじめで善良な人たちでした」
と、話してくれた人がいた。その時も、「そうでしたかと」と手元のノートにメモを取るだけだった。
 絹田はいつでもノートを持っていて、小さな字でメモを取る。どんなことでも書き漏らすまいとメモを取る。「こんな人とあったのよ」「「こんな集まりがあってね...」とノートをめくりながらお話しする。小さなことでも正確に伝えようとする姿勢は、その頃からの習慣なのだろうか、聞き漏らさず、伝え漏らさず...聞き書きをする絹田の真摯な姿がうかがえる。事実をそのままに伝えることの大切さを知った人である。
 ところで、証言はそれに止どまらなかった。その後に聞いた証言こそが絹田のライフワークを大きく変える事になるのだが、その時は、ただただ驚くばかりだっただろう。
 小柄で痩せた絹田は、語る言葉も優しく穏やかな方である。体調を崩してからも自分より若い人たちの事を心配して声を掛ける。他人を悪く言ったり、傷つけたりするのを私は見たことがない。一目で人を信頼させてしまう魅力を持っている。始めてお会いした時、何故こんな大変な問題を始めたのか、不思議な気がしたものである。およそ不釣合いだったのだ。そんな絹田が、あまりに悲惨な話を耳にした時、どの様に気持ちを整理したのだろうか。
 
 荒川放水路物語の証言者は、もうひとつの歴史の証言者でもあった。
 1923年9月1日、関東大震災が起きた時、荒川はほぼその姿を現し、何本かの木製の橋が完成していた。土手も形作られていたが、川底部分には雨水などによる池のような大きな水溜りが出来ているだけで、通水はその翌年のことである。
 震災時の浅草、深川、本所あたりの大火は有名だが、荒川はこの消失地域から東に数キロ離れた所にある。歩いても1時間と掛からない。当然、焼け出された人たちの避難場所となり、数万人が集まったと言う。
 地域の住民・避難民は、頻発する余震と西の空を真っ赤に染める火事の勢いを恐れ、一晩中家の外で過ごした。加えて、『あの火をつけたのは朝鮮人だ』『朝鮮人が襲ってくる』など様々な流言蜚語が飛び交い、恐怖は頂点に達した。住民や避難民は自警団を作った。2日か3かには軍隊がやって来た。後はご存知の事件である。避難場所は、一瞬にして殺戮の場と化した。
 軍隊が来たとき、殺戮が行なわれたとき「・・・みんな万歳、万歳をやりましたよ」という。そして、広い河川敷は恰好の死体置き場、火葬地、埋葬地とされた。
 当時、10数歳であった証言者たちは、震災よりもその後の人殺しを見てしまった恐ろしさを語る。
 「3日、習志野から騎兵隊が来ました。・・・何人殺したでしょう。随分殺したですよ。私は穴を掘る手伝いをさせられました。あとで石油をかけて焼いて埋めたんです。他から来たものも一緒に埋めたんです。いやでした。・・・」
「・・・3箇所大きな穴を掘って埋め、上から土をかけていました。・・・」
「異臭が何日も残った。・・・時々怖い夢をよく見ました」
話してくれた人は何人もいる。虐殺があったところへ絹田を案内してくれた人もいた。
「ひどい事をしたものです。せめてお経でも上げてくれれば供養になると思うけどね」
「未だに遺骨が埋められたままらしい。掘り出して供養して欲しい」
と思いを託す人もいた。
 証言者にとっても絹田との出会いは大きな意味を持った。見てしまった事を、やらされてしまった事を、50余年、口を閉ざして生きてきた。彼らの家族も聞いた事がないという話である。当時、かん口令が敷かれた事もあるが、近所の人々も関わっている事でもある。一度、心に閉ざすと、開くのに大きな力が必要なのかも知れない。それにしても、あまりに悲惨な事件である。晩年を迎えて、闇に葬り去るには荷が重いことだったろう。誰かに話したかったのかもしれない。話して、事件から解放されたかったのではないか。絹田と出会って、荒川の話をしていて心のひだにふれ、乗じて語ってしまったのだろうか。
 彼らは、絹田に語り、思いを託した。

 絹田にとって大勢の朝鮮人が殺された位にしか知らなかった関東大震災時の事である。最初に聞いた日、家に帰って、メモを読み返し、事の重大さに気が付いた。
「知った事、知らん振りするのが怖かった」
当時の思いを絹田は、そう語る。それにしても、個人には手に余る問題である。知人や新聞社などに相談したが、なかなかよい返事を貰えずに困っていたところ、応えてくれた方がいた。
「大切な問題なので調査してみようではないか。私たちの先輩が犯したあやまちに対して、なんらかの形で償いをする事が出来ればと思う」と。
 大学で事件を研究している人の協力も得た。人が人を呼び、証言に基づいて遺骨を掘り出し調査する事にした。

 1982年の試掘はこうして行なわれた。しかし、遺骨は見つからなかった。事件からの60年の風雪は、河川敷の様子を大きく変えていた。一級河川を管理する建設省の発掘制限も厳しいものであった。試掘に思いを寄せる人々の無念は大きかった。ドキュメンタリー映画「隠された爪跡」(1983年 呉 充功監督)に見る彼らの表情は、その無念がいか程のものか、伝えるのに充分なものがある。

 彼らは、無念の思いを行動の中に鎮めるかのように、試掘以降、毎年9月第一土曜日に追悼式を続けた。同時に事件の全容を調べようと聞き取り調査が進められた。この調査は10年かけて行われ、地域のお年寄りから多くの証言を集めた。又、韓国まで出かけ遺族にも会っている。そうして、「風よ鳳仙花の歌をはこべ」(1992年、教育資料出版社)と言う本にまとめた。調査に目鼻が付いた頃、新しい課題が生まれた。いや、彼らの思いが生み出したと言った方が正しいのかもしれない。事件の現場のひとつである荒川河川敷に追悼式の度に仮設の祭壇を作るのではなく恒久的な碑を立て、いつでも誰でもが訪れ、思いを馳せられるようにしたい。
「失われた生命の尊さをかみしめ、追悼の心を形に表し、次の世紀を両民族の和解と友好のうちに迎えたい」と、「朝鮮人殉難者の碑の建立に向けて」という呼びかけ文はむすんでいる。
 
 
私は彼らと、4年前に出あった。彼らは都内に住みさまざまな職業を持つ。年齢も違えば性格、趣味も違う。それぞれ、まるで違う日常を送っている。彼らは、月に1.2度は平井にある居候事務所に集う。やはり、様々な糸を手繰って辿り着いた人たちである。12年の間には、離れた人、戻った人、途中参加など、人の動きもいろいろだったらしい。必要に応じて、駆けつけたり、作業をこなす人もいる。皆が、出来る所で参加している。
 今また、「碑を建てたい」との思いに向けて集う。まず、思いありて、の人たちである。ではどうするか? どんなに思いが強くても荒川河川敷は日本国の国有地である。加えて70年も昔の話をむしかえしてさわぎを起こしてくれるな、と言う地域感情がある。たやすく建立許可が下りるものではない。
 地域にこだわる活動を続け、参加者・理解者は確実に増えている。しかし、これぞという進展は未だにない。それでも、未来は自分たちで切り開くものだと信じている人たちである。皆が荒川の河川敷に碑が建つ日を夢見ている。
 私にとって、「日本の歴史だから、日本の民として考えるのだ」と平然と言ってのける日本人との始めての出会いが彼らだった。この出会いは計りきれないほどの喜びと力を、私にもたらした。ずっーと昔、私が若かった頃、同年齢の同胞と出会ったが、その時以来の転機ともいえる。陳腐な「民族を超える」という言葉が生きた心となって私を包む。思いを共に、行動できる事の喜びは大きい。
 平井通いはまだまだ続きそうである。
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タグ: 追悼式 会報 追悼碑



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