追悼碑のある庭のお隣の家を「ほうせんかの家」と名づけ開放しています。  ● 毎週土曜日  13時から17時まで。  ● 順次、お料理を作ったり、映画をみたり、イベントを組みます。参加をお待ちしています。  訪問される方は、当ブログの予定をチェックして、来てください。 尚、日程が合わない方は、事前に申し込んでみて下さい。誰かが、あなたの都合に合わせれるかもしれません。  お待ちしています。   ===⇒ ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ ⇒   .   .   .   .   .   .   .   .   . 「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」のホームページも 参照下さい 「追悼する会の来歴など」や、「震災時の事件について」詳しく、わかり易く紹介させて頂いています。是非、立ち寄ってみてください https://housenka.jimdo.com

2020/8/16

体験記NO,4  朝鮮人の体験記

体験記NO,4  全 鍚弼      群馬県境町

 震災当時、私は東京の大井町でガス管施設工事場で働いていました。飯場には朝鮮人労働者が13名いました。
 9月1日は朝から雨だったので仕事に出られず、飯場にこもっていました。12時ちょっと前でした。昼飯を食べようとしているところへ、激震が襲ってきました。瓦がとび、家が倒れ歩くこともできません。私は外に飛び出し、電柱にしがみつきぶるぶるふるえていました。
 そうこうするうちに地震はいくらか弱まってきましたが、横浜方面から火の手が上がり、東京市内でもか火災がおこり、火勢はますます激しくなりました。
 夕方、6時ころだったと思います。あちこちから日本人が手に手に日本刀、鳶口、ノコギリなどを持って外に飛び出していました。しかし、私たちにはそれが何を意味しているのか少しもわかりませんでした。しばらくして、「朝鮮人を殺せ」という声が聞こえてきました。私には何の理由で殺されなければならないのか、さっぱり見当がつきません。はじめのうちは、そんな馬鹿なことが……と信用しませんでした。ところが、外をのぞいてみると、道の両側に武装した人が要所要所を固めるように立っていました。
 私たちの住んでいた周囲の日本人は、とても親切な人たちでした。その人たちが、とんできて大変なことになった、横浜で朝鮮人が井戸に毒薬を入れたりデパートに火をつけたりするから朝鮮人を片っ端から殺すことになった、一歩でも外に出ると殺されるから絶対に出てはいけない、じっとしていれば私たちがなんとかしてあげるから……といってくれました。しかし私たちはそのようなことが本気に信じられませんでした。
 夜も遅くなって受け持ちの巡査と兵隊二人と近所の日本人、15、6名が来て「警察に行こう。そうしなければお前たちは殺される」と云いました。私たちは家を釘づけにして品川警察署に向かいました。私たち13人のまわりは近所の人が取り囲み前後を兵隊が固めました。
 大通りに出ると待機していた自警団がワァッーとかん声をあげながら私たちに襲ってきました。近所の人たちは、大声で「この連中は悪いとこをしてはいない、善良な人たちだから手を出さないでくれ」と叫び続けました。
 しかし、彼らの努力も自警団の襲撃から私たちを完全に守ることは出来ませんでした。長い竹槍で頭を叩かれたり突き刺されたりしました。殺気だった自警団は野獣の群れのように随所で私たちを襲いました。 数時間もかかってやっと品川警察にたどり着きました。その間、自警団に襲われた回数は思い出せないほど多数にのぼりました。
 こうしてやっと私たちは、親切な近所に住む日本人のおかげで命が助かったのでした。私は40年たった今でもその人達を忘れることが出来ません。
 品川警察署は数千の群衆に囲まれていました。彼らは私たちを見つけるやオオカミのように襲ってきました。
 その時の恐怖は言葉や文章では表すことができません。そのうち巡査が大勢でてきて殺気立った群衆を払いのけ私たちを警察の中に連れ込みました。警察署は木の塀で囲んであったので夜になっても自警団の襲撃は絶えませんでした。
 一週間位は日に、にぎりめし一個ぐらいしか与えられませんでした。一週間ぐらいして、大阪方面から米が届き玄米のにぎりめしが、いくらか多く配られるようになりました。
 私たちは警察に二十日ほど収容されたのち青山の収容所に送られました。
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2020/8/10

朝鮮人の体験記NO、2と3  朝鮮人の体験記

今日は、体験記をお二つ紹介します。

体験記no,2      李鐘応   東京都台東区

 私は1922年(28歳)の二月に日本に渡りました。そして、呉、大阪、名古屋などの飯場や山梨県早川の近くの発電所ダム工事場を歩いて1922年の4月に東京にやってきました。7月から本郷の区役所の臨時雇いになり、10月からは日比谷公園の掃除夫として働いていました。9月1日はちょうど公園の仕事が休みだったので、その日を利用して上野広小路の市電敷設工事に出て働いていました。12時2分前、突然地震が襲ってきました。電車が倒れ家も倒れ方々で火災が起こりました。私は夢中で雑司が谷の蛍雪寮(朝鮮人学生寮)に帰りました。一晩中地震が続き、弟と甥がどうなっているのかと心配して私を探しに来ました。
翌日の一時前、食堂に昼飯を食べに行こうとすると、朝鮮人を手当たりしだいに殺しているといううわさが聞こえてきました。それで私たちは一歩も外に出ることも出来ず部屋の中に閉じこもっていました。
夜になりあまり蒸し暑いので家の前にゴザをしきそこでみな寝ることにしました。真夜中になって2、30人の自警団が手に手にトビや日本刀を持って「朝鮮人やっちまえ!」といって飛びかかってきました。丁度そこには隣組の青年団長である佐々木某がいて、「この人達は学生でみな真面目な人だから殺してはいけない」といって私たちをかばってくれました。こうして押し問答をしているうちに武装した兵隊がトラックでやってきて、自警団を押しのけ私たちをトラックに乗せ巣鴨の刑務所に送り込みました。私たちは全部21、2名いました。私たちは全員一列にならばされ、剣付鉄砲をもった兵隊が一人ひとり厳重にとりしらべました。銃殺するための点検のように思われ気が遠くなりました。しかしどうしたわけか翌三日又トラックに乗せられて蛍雪寮に送り返されました。何日かたって朝鮮人虐殺のニュースが次々と伝わってきました。本所の深川、亀戸で大量に虐殺され、月島等でもむごたらしく殺されました。
月島には私も働いたことのある飯場があって、そこには20人程の朝鮮人がいましたがそのうち19人は虐殺されました。あとで聞いた話ですが飯場にいた朝鮮人一人は壁にハリツケにされました。生きのびた一人は私の友人で開城の出身であります。彼は大変日本語がうまく生きのびることが出来ましたが、彼は日本人のまねをしてはちまきをし、日本人のような顔をしていたので殺されずに済んだということです。
本所公会堂の前でも10名が殺されました。
3∼4日後、日比谷公園に行きました所、市川主任が外に出れば殺されると言って私を倉庫の中に入れました。それは少し前に自警団がやってきて朝鮮人を出せと市川主任につめよったことがあったのでそうしたのです。私は倉庫の中で一週間程過ごしました。

体験記no,3   金学文  愛知県守山市

 9月1日昼ごろ突然大地震に襲われました。当時わたしは、東京市水道局の玉川揚水場で働いていました。仕事は水取口にたまった砂などをとりのぞくことでした。朝鮮での生活が苦しく、職を探して日本に渡ってまだ一年しかたたず、日本語はやっと聞き分けることが出来る程度でした。毎日の仕事は苦しく、外出する機会もないので、東京について何も知りませんでした。
 うまれてはじめて大地震にあったので、たいへん驚き、どうすればよいのかわからず、ぶるぶる震えていました。そのうち地震もやや静まり、監督の成沢さんの指示に従って、倒れたり壊れたりしたものを片付けていました。
 三日、「朝鮮人はみな殺す」ということが、「朝鮮人襲撃」のうわさとともに伝わってきました。私は不可解でした。あのような大地震のさなかで、すべての人間が生きようと逃げまどうのに必死になっている時に、朝鮮人だけが、集団で襲撃するというは、どうしても考えられませんでした。地震の恐ろしさで,私自身日本語ができ、東京の地理をいくらかでもわかっていれば、いきるために避難したはずです。
 とにかく「朝鮮人を殺せ」ということをきいて、無我夢中で成沢さんのところへ走って行き、何とかたすけてくれるようお願いしました。成沢さんは揚水場に働いていた朝鮮人労働者四人を、一番奥の部屋にかくし、入口にはほかの日本人労働者を立たせて、自警団の襲撃から私たちを守ってくれました。こうして一週間ほど過ごしました。
 十日ほど過ぎて、わたしたち朝鮮人労働者四人は、死体処理に駆り出されました。めいめい腕章をつけさせられ前後を数名の日本人にとりかこまれて、江東の砂町方面にいきました。錦糸掘には、相愛会の建物があって、その付近には「コジキ宿」といってまずしい労働者の宿が多く、土方をしていた全羅南道出身の同胞が多く住んでいました。
 これらの人は殆ど殺されたようでした。私たちが処理した死体には、火にあって死んだ人やとび口や刃物で殺された人がありましたが、両者ははっきり区別できます。虐殺された人は、身なりや顔つきで同胞であることが直感的にわかるばかりではなく、傷を見れば誰にでもすぐ見分けがつきました。小さい子供まで、殺されていました。あの頃のことを思うと今でも気が遠くなりそうです。
 それから40年、一日でも早くこんな恐ろしい日本から逃げ出すことしか考えていませんでした。
しかし、毎日の生活におわれ、国にかえる旅費すら蓄えられずにいます。
 今日、若いみなさんが、あのむごたらしい虐殺の真相を明らかにしようと、はるばるたずねてきて下さって、感謝にたえません。あのような虐殺は二度とくりかえされないよう、たたかわねばなりません。





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2020/8/8

朝鮮人体験の連載  朝鮮人の体験記

1963年10月
 大震災から40年後に 当時殺されかけた朝鮮人たちの体験をまとめて残して下さった方たちがいらした。
 朝鮮大学校発行「朝鮮に関する研究資料 第九集・関東大震災における 朝鮮人虐殺の真相と実態」である。

 97年目の夏、体験記録を、ここに改めて紹介する。
 本人にしか語れない言葉たちを、お一方づつ
 鬼籍に入られた方々の生の言葉たち

全 虎厳   奈良県大和郡山市
 
 私は1921年苦学するために日本に渡り、神田にあった朝鮮学生会館に出入りしました。
 そこで朝鮮独立の重要性を知り、その方面での友人関係を多く持ちました。そうするうちに南葛労働組合の人々と知り合うようになり、朝鮮の独立は朝鮮の労働者階級が日本の労働者階級と手を結んで支配権力を妥当しなければ達成できないということになり、私は亀戸の福島ヤスリ工場に工員として働きました。そして大正11年南葛労働組合の亀戸支部が結成され、そこで活動しました。
 大正12年9月1日11時58分、私はヤスリ工場で仕事中でした。逃げる途中負傷者などを助け出したりして遅くなってから亀戸の南葛労働組合の支部へいったところ、共産青年同盟の河合(義虎)委員長に出会いました。彼の話に依ると、彼は総同盟から帰る途中地震に遭い上野付近で避難してきた人たちのせわをしながら活躍したとのことである。私は彼が二日の朝帰ってきた後もそのあたり(亀戸)のひとたちのために救護活動をしたことを知り感激しました。 
 二日の夜(7、8時ころ)だったと思います。附近の人々があちこち集まってがやがやはなしていたので側へ行ってみると、炭鉱の朝鮮人労働者がダイナマイトを盗み集団で東京を襲撃してくるから、みな町を自衛しなければならないというようなことを言っていました。私は何故朝鮮人を殺すのだろうと不信に思いました。夜になって朝鮮人が大勢逃げていくというので、私は近くにある飯場へ行ってみました。飯場のすぐ側にハス畑があって、鉄道工事に従事していた同胞が20人ばかりいました。行ってみると、黒竜会の連中が日本刀などを持って飯場を襲撃し、ハス沼の中に逃げ込んだ人までも追いかけ、日本刀で切り殺していました。私は恐ろしくなってすぐその場を逃れましたが虐殺は三日の明け方まで続き、そのうち女性一人を含む三人はやっと逃げ延び亀戸警察署に収容されました。私は後でこの人たちに会い虐殺の実態を確かめることができました。あちこちで朝鮮人殺しのうわさが頻繁につたわってきました。工場の人たちは私に外へ出たら危ないから家の中にいるようにと言って無理に押し込み、外で見張りまでしてくれました。
 翌日(三日)の昼頃になってこの儘では危ないし警察が朝鮮人を収容しはじめているからそこへ行ったほうが安全だということを聞き、工場の友人たち十数人が私を取り囲み亀戸警察へ向かいました。街に出てみると道路の両側にはは武装した自警団が立ち並び、兵隊も出動していて険悪な空気が充満していました。そして連行される同胞が道で竹やりなどで突き刺され、殺された死体があちこちにありました。私も何度か襲われましたがやっとの思いで午後3時ごろ亀井署に着きました。すでに朝鮮人でいっぱいでしたので私は隣にある二階の講堂に入れられました。夜十時すぎ頃にはっここも超満員になりました。全部で千人は越えたと思われます。入り口には巡査が立って警戒しました。中国人は全部で50人ほどでしたが道場と講堂の間の通路にすわらされました。
 四日明け方三時頃、階下の通路で二発の銃声がきこえましたが、それが何を意味するのか判りませんでした。朝になって立ち番をしていた巡査たちの会話で、南葛労働組合の幹部を全員逮捕してきてまず二名を銃殺した、ところが民家が近くにあり銃声が聞こえてはまずいので、残りは銃剣で突き殺したということを知りました。私は同志の殺されたことをここで初めて知り、明け方に聞いた銃声の意味も分かりました。
 朝になって我慢できなくなり便所へ行かせてもらいました。便所への通路の両側にはすでに3,40の死体が積んでありました。この虐殺について、私は二階だったので直接見てはいませんが、階下に収容された人は皆みているはずです。虐殺のことが判って収容された人々は目だけギョロギョロしながら極度の不安に陥りました。誰一人声を立てず、身じろぎもせず、死人のようにしていました。
 虐殺は四日も一日中続きました。目隠しされ、裸にされた同志を立たせ、拳銃を持った兵隊の号令の下に銃剣で突き殺しました。倒れた死体はそばにいた兵隊が積み重ねてゆくのを、この目ではっきり見ました。四日の夜は雨が降り続けましたが、虐殺は依然として行われ5日の夜まで続きました。
 ここでひとつ付け加えておくことは3日の夕方、虐殺についてまだ知らなかったとき、亀戸署の朝鮮人係で(特攻)北島という男が、二階に上がってきて辺りを見回し誰かを探している様子でしたがすぐ降りて行きました。南葛労働組合の事で北島は私の事もよく知っていておりましたので、私は不用意にこえをかけましたが、彼には聞こえなかったと見えてそのまま降りて行ってしまいました。あとで虐殺のことを知り、危機一髪の思いで一命をとりとめ胸をなでおろしました。今でもそのことを思い出すと身の毛もよだつ思いがします。実は当時の新聞のには私も南葛労働組合の他の同志とともに殺されたと出ていたのです。亀戸署で虐殺されたのは私が実際に見ただけでも5、60人に達したと思います。虐殺された総数は大変な数にのぼったと思われます。
 虐殺は五日の夜中になってピタリと止まりました。巡査の立ち話から聞いたことですが「国際赤十字社」その他から調査団が来るということが虐殺をやめた理由だったのです。六日の夕方から、直ぐ隣りの消防車二台が何度も往復して虐殺した死体を荒川の四つ木橋のたもとに運びました。あとから南葛の遺族から聞いたことですが死体は橋のたもとに積み上げ(死体の山二つ)ガソリンで焼き払い、そのまま埋めたそうです。その後私は遺族に連れられて現場に行き、死体を埋めたあとを実際に見ました。
 死体を運び去ったあと、警察の中はきれいに掃除され、死体から流れ出した血は水で洗い流し、何事もなかったかのように装われました。調査団が来たのは7日の午前中でした。
 虐殺を免れた同胞は七日の午後、警察の庭に集合させられました。そしてなんの説明もうけず亀戸の駅に行き、線路づたいに歩かされました。私たちのまわりは武装した騎兵が取囲み、重々しい空気が流れていました。私は一人ひとり殺すのが面倒くさくて機関銃などで一度に殺す目的でどこかにつれていくのだとしか考えられず、足が地につきませんでした。習志野には11月迄いてさらに青山の練兵所に移されました。
 そして私は他の同胞と共に帰国するつもりでいましたが、南葛労働組合の同志達がどうなっているのかをどうしても知りたかったので、亀戸のメリヤス工場に戻りました。まもなく警察の中で虐殺された同志が11名であることを知り、その遺族にも会うようにもなりました。警察は河合を始めとする葛労働組合の幹部が警察の中で革命歌を歌い、大衆を扇動するからやむおえず殺さざるを得なかったと言っているが、そんなことは絶対になく、始めから虐殺が目的で警察に連行したことは、虐殺当時警察の中にいた私がいちばん良く知っております。そこで遺族たちは、虐殺について裁判問題にするから是非証人になってもらいたいと希望したので私はそのまま残ることにしました。ところが裁判は開いてもらえず、真相を訴えようとする私に対して厳しい弾圧を加えました。こんなわけで今日まで私は公式に真相を訴えられずにきました。
 
 当時、荒川の堤防工事で四ツ木橋近くには朝鮮人労働者の飯場が沢山ありました。これは私が実際に見たのではなく震災直後に、習志野からやってきた騎兵隊が橋の下で同胞たちを機関銃で虐殺したということを実際に見た人から聞いています。その他、亀戸の南の大島付近には中小企業が沢山あって多くの朝鮮人職工が働いておりました。そのひとたちの多くも騎兵隊や自警団に依って虐殺されました。ようやく生きのびて亀戸警察署ニ逃げ込んだ人もいました。

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