2008/7/28

神保町花月「HI・KO・HA・CHI」  しばいデイズ


神保町花月「HI・KO・HA・CHI」千秋楽見てきました。






ランディース班楽屋裏ブロクにも

そしてクライマックスのシーン。久馬さんと中須さんは出番でなくみなさんの真剣な芝居をモニターでみてたのですが、ここで根本的な疑問が。。。

久馬さん「この間のお福が刺されたり、ネタ帳が助けたり、五十兵衛が改心したりとか知らんわけやん??俺はこの時どういう顔すればいいんかな??もどったら五十兵衛がいい人なってるんやで?」

中須さん「僕なんてなんも事情しらんのに手をふってるんですよ??」

───そこは、神主さんが裏でおしえてるんじゃ??

中須さん「なるほどな」

そんな事を今更いいだした中須さんですが、それを早くに言ったら出番が減るのがこわかったそう。久馬さんも刀傷のついたネタ帳を喰い気味にみたりと地味な芝居をしてたそうです。


この裏ブログ、どなたが書かれているのかは判りませんが、おそらく、作・演出の方が書かれているのではないでしょうか?

これ、さりげないことですが、物語を書く上では凄く重要なことです。

その場にいなかったはずの人物が、いなかった間に起こった事柄について何も知らないはずなのに、まるでその時その場にずっといあわせていたかのように後後の話に自然と加わって、……あれ?でも、それっておかしくねえ?
と云うことはこの舞台に限らず、舞台、マンガ、小説等に時折見られます。

裏ブログでは「そこは、神主さんが裏でおしえてるんじゃ??」と、(無理やり)解決させていますが、そこまで見ている観客に考えさせて、観客の想像に任せるのは作家の「手抜き」に見えます。

ブログでは「今更いいだした」と書かれていますが、云われなかったらこの作家の方(徳田さん)最後まで中須さんがおかしいと感じたこの矛盾点について気がつかなかったのではないでしょうか?


思うに作家はご自分の作品に関しては「神の視点」に立ってしまいがちです。

作者は作品の中で起こる出来事に関して全て熟知していますが、作品の中の人物は違います。
作品の中の人物はそれぞ異なる視点でその作品上の物語を見聞きし思考します。

簡単なことですが、それを整理して書かないと、「事情を知らないはずの人物が知らないことに疑問を持たず何故か知っている加のように振舞ってしまう」ということが起こってしまいます。

勿論、プロの作家の方はその点については充分気をつけられていらっしゃいます。
だからこそ、作品を1つ書き上げるということは大変な仕事ですし、作家1人だけでは見落としがちな部分を補うために「編集」と云う方がいらっしゃるのではないでしょうか?

今回、お〜い!久馬さんが指摘されていますが、久馬さん自身も本を書く方なのでご自分の作品ではこういうミスをしないように気をつけなくてはいけないですね。


「これはお客さんが勝手に解釈・考察すればいいだろう」というのは、「説明不足」で片付けられることが多いですし、優しいお客さんであれば、自分達でその説明不足」を勝手に脳内補完し楽しんでくれます。
でも、これって結局は作家の「怠慢」ですから。

確かに「説明不足」が物語を面白くする場合はあります。
作者が意図して「説明不足」を提示している場合は、その不足分を埋めることが面白さにつながります。

でも、上記のクライマックスシーンは違いますよね。
ちゃんと、「神の視点」からだけでなく、それぞれのキャラクターの視点に立って物語を見直せば、久馬さんや中須さんがわざわざ指摘しなくても気づいたことです。



執筆時間も短く、その割には上演期間が長くない「神保町花月」でここまで考えながらの作品を書いていたのではいくら時間があっても足りませんし、その労力に見合うとも思いませんが、ちょっとの頭の切り替えでこのことは防げます。



久馬さんと中須さんが指摘されたクライマックスは、とても大事なことです。
裏ブログでこのことに触れられていることから見ても、作家の方もこの重要性に気づいていらっしゃると思います。

次回作が楽しみです。











(レスと云う名の追記)

神保町花月、チケットを取るのがギリギリだったため、一番後ろの席でしたが、見やすかったです。

演劇色の強い舞台で、評判もまずまずのようですね。
予定調和なストーリーのため、意外性には欠けていますが、落語のシーンは圧巻でしたし、1幕ごとにきちんとオチも用意されており、アドリブを含めた「笑い」も楽しく、大喜利コーナーもストーリーの流れに沿ってキレイでした。
これはなかなかの良作だったと思います。

ただし、作家の方は、本記事で述べたこと以外にもまだまだ勉強しなくてはならないことがあるように見受けられました。

もちろん、このHI・KO・HA・CHIは東京で行われた上方落語イベントの一環としてのお芝居ですので、殊、「落語」に関してはかなり勉強されたと思います。

しかし、残念なことに主な舞台となる江戸時代が全然江戸時代に見えませんでした。
江戸時代中期というのも後で資料を読んでようやく判りました、ってくらい何時代の話かさえ見えてきませんでした。

お客さんの大半は20代前後の女性の方です。
そういった方々が時代考証を意識されることは特にないのかもしれません。
ですので「『神保町花月』で上演するならこの程度でいいだろう」になっても仕方がないのかもしれません。

それでも科白に使われている言葉は余りにお粗末でした。

一応、作家の方も「外来語はNG」という点は配慮されていますが、科白の中でもっと単純で明快な日本語を使えばいいところでも、わざと江戸時代の庶民には通じない難しい言葉をいくつか使っており、しかもそれがやけに目立ってます。

例えば、この作品では「時」がひとつのテーマとなっていますが、「時間」や「時空」(特に「時空」はこの作品のキーワード)と云う言葉を無理に使うより、ここは「時」を使う方が無難です。
「時」は「時そば」でも見られるように江戸時代で使われてもおかしくはありませんが、「時間」「時空」はおそらく明治以降の使われるようになったのでないかと思います。
比較的言葉のゆるいTV時代劇でも「時間」はともかく「時空」と云う言葉はまず使われないです。

確かに、そこまでの時代考証をたった4日しか上演されない、しかも芸人さんが演じる舞台で求めるのが失礼かもしれません。
ただ、これが「なんちゃって時代劇」ならここまで厳密なことを云う必要はないのですが、「落語」と云う話芸、そして「上方」と云う文化を題材としている以上、その当時の言葉、文化を大事にして「本」を書いて欲しかったです。

ストーリーを見る限りでは、この作家の方はとても真面目で創作意欲のある方だと思います。
それだけに、久馬さんや中須さんが指摘された点をこれからの創作活動に生かして欲しいですし、隅々まで目が行き届いた「本」を書けるよう頑張って欲しいと思っております。

そういう意味であの裏ブログは作家の方に書いていただきたかったです。



…というダメだしっぽいブログになりつつあるので、このブログそろそろ潮時かと思っております。




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