2010/3/3

『かすかにゆする はるのかぜ。』に思う  わらいデイズ

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最近、久馬さんが節目節目に書くショートストーリーって、なんだか笑えるのでもなく泣かせるのでもなく、ただギミックが凄いだけのショートストーリーのように思えてきます。

それを「文才」と呼ぶのかは判りません。
が、たしかにこういう文章を(ブログに)書く方は他にいらっしゃらないかもしれません。

ただ、このところのコント(例えばレッドシアターでの「プロポーズ」)や本公演にも云えることですが、変に構成がパターン化されているように思えます。
確かにファンの方やこの手のショートストーリーになじみのない方は「凄い!久馬さん、天才!」となるかもしれません。
ところが、ある程度パターンが読めてくると。この手のコントやショートストーリーは「ああ、また例のパターンか。」と先が読めてしまいます。

現にそうなっている方もいらっしゃるのではないでしょうか?
(逆に「ひな祭り」とは全く関係のないまま終わったほうがナンセンスで驚かされたかも…)

それだけでなく、今回の記事に思うのは「褒めコメント」がつくのを前提としてか書かれているような…。
実際ついているコメントの殆どが手放しの賞賛でした。

どんな作家でも作品でも褒める人があれば反対に貶す人もいます。

でも、久馬さんのブログといえば、おそらく読者の大半が(そしてコメントをつける方のほぼ10割が)ザ・プラン9ファンです。
褒める人はいても面と向かって貶す人は皆無です。

ブログ記事を公開した時点で返ってくるのが褒めコメントになることは、久馬さんご自身も予測済みでしょう。

コメントを読むと、ブログ読者が瞳をキラキラさせて褒めている姿が見えてきます。

周りが全員YESMAN。

好意的な方ばかりだからいいことじゃないか、と思われると思います。

ただ、周りには「好きな人」と「無関心な人」しかいないように見えてしまいます。

「嫌いな人」は嫌ってくれることで「好きな人」からは得られないモノ(好きな人には見えないその人の欠点など)を与えてくれますが、「無関心な人」は何も与えてくれません。

他人から嫌われることは怖いことですが、でも、得るものはあると思います。

周りが久馬さんを好きな人ばかりというのは、それだけの力量が久馬さんにはあるからなのでしょうが、実際のところ私には今ひとつピンときません。

こんなふうに久馬さんのように周りに褒める人しかいない作家は幸福なのでしょうか?それとも不幸なことなのでしょうか?




ところで、先日、購入した「ザ・シネマハスラー」にこんな言葉がありました。

こういうこと言ってると、素直に見てない、とか言う人がたまにいるんだけど……それは違うでしょ。泣けと言われたら泣くのが「素直」なのかって話ですよ。
「ザ・シネマハスラー『パコと魔法の絵本』評」より

これは、常々思っていたことですが、
「素直になれ」と叱られたとき、「こちらはこの上なく素直に気持ちを述べているのにこれ以上どうしろと?」と、疑問に思うことがあります。
「素直になれ」というのは、「私の言うことが正しいのだからそれに同調しろ」ってことなのでしょうか?

今回の久馬さんの「ひな祭り話」も「素直に読めば?」と、云われそうですが、素直に読むと、「褒めて褒めて。」と、催促されているような気分になってしまいます。

だから、褒めてあげるのが素直なのかもしれませんね。
私には上手くできませんが…。

「素直」ってどうことなんでしょう?
人によってコロコロと姿を変えて掴みどころがないように思えてきます。


久馬さんの文才はファンしか見ない(読まない)狭い世界だけでなくもっと広い世界に挑むことでどれだけの力量なのかちゃんと見極めて欲しい気もします。

そのためにも一度書籍化されないでしょうか?


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