なんすれぞ大樹
連枝をなげうつ断腸す
三顧身を持するの日
涙をふるう
南柯夢に入るとき
万死報国の志 未だ遂げず
半途にして逆行
恨みなんぞ果てん
暗に知る
地軍の推移し去るを
目黒橋頭 杜鵑啼く
By松平容保
・・・恨みなんぞ果てんって
言わずもがな、
会津藩主肥後守様。
私的に会津侯や容保侯、会津様、肥後守様より『宰相』様の響きが好き。
結成当初の
新選組の後ろ盾になってくれました。
実直で温厚で病弱な容保侯。
そんな容保侯も晩年になってついつい
恨み節・・・・
二心殿(徳川慶喜)に対してかなり腹が立ってるんだろう・・
そりゃそーですよね。
慶喜は早々と
恭順して後は悠々自適に生きていったのだから。
それに引き換え、あれだけ
孝明天皇との信頼関係があった容保侯は天子様に弓ひいた
賊軍となってしまったのだから。
将に悲劇の殿様でしょう。
会津の地そのものが戦場になってしまった。
市井の者にも被害が及んでしまった。
街を焼かれ沢山の戦死者を出してしまった。
まだ若い
白虎隊の自刃、
籠城せずに自刃して逝った婦女子。
容保侯は一人でこの事実に相対したのです。
*会津陥落後の容保侯略年表*
1868年(明治元年)
鳥取藩に幽閉され永預り処分となる。
その後
和歌山藩を経て
斗南に移される。
東京で蟄居。日光東照宮宮司となる。
1876年(明治9年)
藤田五郎(新選組斉藤一)と旧会津藩大目付高木小十郎の娘
時尾と婚姻。
仲人を容保侯。
1893年(明治26年)
東京で永眠。。。
昭和に入って容保の
孫娘節子姫が天皇家
秩父宮との婚姻。
此れでやっと会津藩主松平容保の逆賊の汚名を晴らすことが出来たようなものです。容保侯も嬉しかったでしょうね。
心血を注いで孝明天皇に尽くしてきたのですから。

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