今日は久々に私の好きな戦国武将を世に広めるための、名づけて
S:戦国武将を
O:大いに知ってもらうために
S:紹介しちゃうよの団?
SOSのコーナーを始めたいと思います(笑)。
今日の武将は
九鬼嘉隆です。
そうです、海上で九鬼水軍、織田水軍を縦横無尽に操り、数知れない勝利を得、
海賊大名の異名を取った志摩出身の九鬼嘉隆です。
彼の生まれた志摩という地方は当時、
13もの地頭が領地を分け合い共存していた地域だったのですが、突如九鬼家を除く12の地頭が結託し攻めかけられ、嘉隆の兄、浄隆が討ち死するという戦闘の末、九鬼家は志摩を追い出されることとなります。
その後、嘉隆は滝川一益(織田四天王の一人)を頼り、信長の配下になります。信長の知遇を得た嘉隆は破竹の如き活躍をし、遂に苦節
10年で志摩一帯を平定し、先祖伝来の領土を回復します。
そして嘉隆の名最も轟かせたのは対村上水軍の為に大きさ
30mを越える鉄の船、
鉄甲船を建造したことでしょう。この当時の常識を打ち破った鉄の船で当時最強と謳われた村上水軍を撃破し、九鬼水軍、織田水軍というものが最強の水軍となったのです。
その後は朝鮮出兵などにも参加し戦功を重ね、運命の関ヶ原では西軍に組し、東軍に属していた子の守隆と戦います。これは九鬼家を守るために両方についたということでしょうが、結局東軍がかってしまい、嘉隆は自害して果てます。
このような波乱な人生を送った嘉隆から私たちが学ぶべきことは何か。それは嘉隆の
独創性ではないだろうか。当時誰が鉄の船が海に浮かぶと考えたでしょう。その他に嘉隆が考えたものというのは
艦砲射撃です。世界で始めて艦砲射撃を実践で取り入れたのは嘉隆です。鉄甲船には
3門もの大筒が搭載されていたようです。
嘉隆は戦に勝つために苦心して苦心して、常識を打ち破りました。現代に生きる私たちは時代の閉塞感の中、固定観念に囚われて日々生きているような気がします。その固定観念を打ち破り、閉塞感をも払拭する独創性への
熱意というものを今一度燃やさなければいけないような気がしますね・・・

嘉隆は
男、人間としては最低の男だったようです(笑)

0