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2015/5/20  1:25

昭和時代…暴力塾は珍しくなかった・・・  人間開発(Human Development)
 昭和時代はスパルタ教育ブームで、暴力塾が珍しくなかった。
 例の石原慎太郎さんがおこしたブームですね、くだらんものでした。
 今でもカルト的なところは多いですし、暴力万歳の組織も珍しくありません。
 
 私が通った暴力塾はたまたま家から歩いて通える距離にあり、費用もそうかからなかった。
 本当に不運だったと思います。
 当時は子供の悲鳴が上がっても、聞こえないようなところでした。

 私は成績は普通でしたし、その暴力塾に行くまでは毎日のように野球をして外で遊んで、大勢の幼なじみと元気に遊んでいました。
 それが突然幼なじみと別れるように命ぜられ、挨拶までさせられて、その塾に連れて行かれました。
 小学2年生の冬、年長の人たちに「わけがわからない」と言われ、涙が出る想いだったの覚えています。

 本来は一週間に2日か3日ですし、朝のトレーニングの時期は朝早く起きてトレーニングに行くこともありましたが、小学3年で入塾して最初のうちは殴られることとかあっても、何とか耐えられるレベルでした。
 しかしだんだん暴力がエスカレートし止まらなくなってきました。
 勉強はもともと嫌いではなかったし、運動するのも嫌いではなかった。
 ただ行くたびに顔を殴られ、木の棒で殴られ、頭を殴られる、時には子供どおしで殴るように命じる。
 ひじょうに悪い元教師だと思ったし、親の言うような「立派な先生」とは思えませんでした。
 ですがほどほどの距離を保ち、うまくやっていたと思います。

 暴力がエスカレートしたきっかけはあの時だったと思います。「モチモチの木」という話があり、けっこう気に入った話がありました。
 親も大好きな話らしく、「あなたは愛想がないから先生に嫌われる、読み方を先生に習ってきなさい」と言われ、渋々行ってきました。
 先生のよいとは思えない読み方をテープで聞いて、練習しました。
 今思い出しても「間」の取り方がおかしく、よい読み方だったとは思えません。
 しかしそのとおり覚え、そのとおり読みました。
 そうしないと殴られますから。
 
 それで珍しく褒められて「まあいいか」と思って帰ったら、次の塾の日が地獄でした。「お前たちは習いにこないで何事であるか!」と言い出し、全員並ばせて木の棒で殴り続けました。
 「僕のせいで」と思って思わず目をそむけたら、「何をしてるか!」と言われ直立不動で立ってきちんと見るように命ぜられました。
 そのあと皆読み方を練習させられ、気に入らないと木の棒で殴られていたので、皆最低50回以上は殴られていたと思います。
 まあ普通の数でしたけど。
 もちろんそのその後は一度も時間外には行きませんでした。
 親に何と言われても絶対行きませんでした。
 友達も誰一人として行った人はいませんでした。
 その私の態度が気に入らなかったのだと思います。

 ある日、「これからは毎日来るように」と命ぜられました。
 とんでもない分量の課題を出され、毎日22時、23時くらいまで勉強し気に入らないと殴られていました。
 勉強なんか教えてくれません。
 課題を終わらせても帰してくれず、暗い教室で座って待たされました。
 そして22時か23時頃にやってきて、「まだいたのか」と笑いながらやってきても、なかなか帰そうとはしませんでした。
 家に帰って、午前3時くらいまで勉強することもありました。
 ある日、木の棒で後方からいきなり頭を殴られ机に倒れ気絶しました。
 だんだん体に異変を感じ、ある日真夜中に帰る途中ついに気絶して倒れていました。
 すでに肺炎をおこしかかっていたのだと思います。
 その時は側溝の深いところの入口で、肩が挟まって止まっていました。
 意識を取り戻したら真っ暗で「僕どうしたんだろう」と思い、懸命に何かにはまっている体を抜きました。
 たまたま自動車が通り、心配そうにゆっくり走って通りすぎていきました。
 学校に行ってももはやぼんやりしているだけで、友達に「大丈夫」と言われても「うん…」と答えることしかできませんでした。

 そしてしばらくたち・・・肺炎を発症しました。
 その間も猫なで声で電話がかかってきて、「治ったらまた来てください」と言われ、親は感激していました。
 感激している親を見て、私はドッチラケでしたけど。
 2週間後くらいにまだ治っていないのに布団から引きずり出され、塾に行けと言われ外を引きずり回されました。
 入院しなかったとはいえ肺炎なのです。
 暴力を振るわれているという話は再三し「また殴られる」と訴えていたのに、「それは先生がお前に見込みがあると思っているからだ。病気のお前にあんな丁寧な電話をかけてくださる先生がそんなことを考えているわけがない!」と言い、一切取り合いませんでした。
 寒い中外を引きずり回されて、最初は力が出ませんでしたが、だんだん情けなくなってきて怒りが湧いてきました。
 子供心に・・・「こんな体であの世界に戻ったら死んでしまう。死にたくない」と思いました。
 そして渾身の力で親の手を振りほどき、私は滅多に泣かないのですが、その時ばかりは冷たい土に座って泣き出してしまいました。
 赤の他人の言ばかり信じ、実の子供のことばを一切信じない親が情けなくて悔しくてたまらなかったのです。

 結局その塾はやめましたが、親に「成績が落ちたら許さない!」と言われました。
 しかし・・・その心配はありませんでした。
 実はその塾に行っている間、ある時期から成績がすごい勢いで下がり続けていました。
 つまり…予習・復習をきちんとする勉強法ではなく、まったく学校と違うわからないカリキュラムで勉強が進み、ある時期から毎日のように塾に通っていたので、学校の勉強にまったく手が回らなくなり、いつも意識朦朧状態だったので過去最悪の成績になっていたのです。
 辞めた後、図画で給食の調理室の絵を描いたのですが、背景をほとんど真っ黒に塗りつぶす異様な絵を描いてしまいました。 
 小学生では…「予習・復習をきちんとする習慣を身につけたかった。」…これも大学生になって一人暮らしをしてやっと身についたので、今でも残念に思います。
 成績はすごい勢いで回復し、親も目を丸くしていました。
 しかしよく遊んで丈夫だった私の体はすっかり病弱になり、ことばも不自由になりました。
 得たものよりも失ったものの方が、あまりにも大きかった。
 
 肺炎は1年間の経過観察が必要でした。
 誰とも話さなくなりましたが、最初に話をしだしたのは両親でした。
 夢からさめると、そこにはあんなに元気に遊んでいたのに、体を壊しことばもほとんど話さなくなった息子がいる、何とか回復させようと必死でした。
 
 私を救ったのは「和の趣味」でした。
 なぜか茶道や囲碁を突然はじめだし、急速に心が回復しことばも発することができるようになりました。
 小学3年のはじめくらいまでやっていた水泳で、学校代表の一人になりました。
 成績は不器用な勉強法で伸びきらないところもありましたが、自分でも不思議なくらいよくなりました。
 幼なじみと疎遠になり外に行かないので、勉強するしかなかったのですが。

 たしかにあの暴力教師は家族の絆に危機をもたらした。
 私の親は「教師というものは偉いものだ」と考える昔の人であり、教師だけは疑うということが一切ありませんでした。 
 父も若い頃高校教師をしていたことがあったので、何だかんだ言って教師への信頼は絶対であり、父も「いやしくも、高い職業意識を持たなければならない教員資格者が、そんなことをするわけがない」と考えていたようです。
 私の体を見る機会があれば、たぶん一目瞭然だったと思いますが。
 父はどちらかと言うとルソー風の消極教育の考え方だったのですが、当時の流行に血迷ったのかもしれません。

 親は後日に私の目に見えるところに、スパルタ教育の本を置いていました。
 悪気があったわけではないと、言いたかったのかもしれません。
 私は元の生活に戻ればそれでよかった。
 親の期待に答えようと自分には厳しくしましたが、やはりスパルタ教育はどこか嘘っぽい気がして合いませんでした。
 後で歴史を調べれば、ギリシアのスパルタ(ラケダイモン)は厳しい軍人教育で知られましたが、そんな体罰教育を行っていたなどという記録はありません。
 「僕はアテネ教育でいいよ」と親には嘘ぶいていました。
 それでうまく言ったとも言い難いのですが、大混乱の時は終わり落ち着いた生活が何とかできるようになりました。

 私は後輩にふざけたことはあっても、暴力を振るったことはありません。

 体罰ゼロということも難しいけど、やはりエディ・タウンゼントさんの言うとおり、「ハート」が一番大切なのだと思います。 

 私は家族の「絆」をひじょうに大切にしています。

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