2006/7/30 13:23
その行きつく先に「大学全入時代」の誤りがある 自然(essay)
そこで最後にくるのが「大学全入時代」という誤りです。
これほど「大学卒は特別」という意識むき出しの考え方はないのではないでしょうか?
結局短大が日本では弱いせいだと思います。
短大はひじょうに長い間大学への転入が許されない世界でした。
教養と専門教育のバランスがとれた短大こそ、本当の意味で日本では必要であります。
日本は何事もアメリカの真似をしてきたのに、短大のコミュニティカレッジのみ真似をしないのはおかしいと思います。
(つながりが悪いので短大シリーズ三連発に変更しました。)
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これほど「大学卒は特別」という意識むき出しの考え方はないのではないでしょうか?
結局短大が日本では弱いせいだと思います。
短大はひじょうに長い間大学への転入が許されない世界でした。
教養と専門教育のバランスがとれた短大こそ、本当の意味で日本では必要であります。
日本は何事もアメリカの真似をしてきたのに、短大のコミュニティカレッジのみ真似をしないのはおかしいと思います。
(つながりが悪いので短大シリーズ三連発に変更しました。)

2006/7/30 13:22
アメリカの2年制大学は「友愛の精神」の象徴である 自然(essay)
アメリカのコミュニティカレッジについて、あらためて考えていました。
日本においては短大を「短い大学、教養課程のみ勉強する」という考え方が蔑視といいますか一般的に強いのですが、アメリカではどうも雰囲気的にそれだけではないことは感じていました。
教養と専門教育のバランスがひじょうにとれている気がしたのです。
いろいろ本も読み、いろいろな手段で情報収集していた中、ウィキペディアの短大関連項目を読んでおりましたら、「デンマークの教育理論を参考に戦後爆発的に拡大した高等教育機関で、短大と翻訳することは必ずしも適切ではない」と書いてありました。
では、どう訳すのが適切なのでしょうか?
もともとカレッジということばが「単科大学」という意味で、アメリカは四大でも伝統のある私大などでカレッジを名乗ることも多い、よって「短大」と訳すことにこだわる必要もないように思いました。
私はコミュニティということばに、もっと精神的な意味があるような気がします。
英語が得意でない私が言うことではないのかもしれませんが、アメリカのコミュニティカレッジは地域コミュニティを基盤としています。
そのコミュニティは「友愛」の精神により支えられています。
アメリカのコミュニティカレッジは、地域社会のみならず、広く外国人やマイノリティにも解放しチャンスを与え、民主主義においてもっとも必要な「・自由・平等・友愛」守る基盤ともなっております。
アメリカの寛大さは主に「ひじょうに強い友愛の精神」からきている気がするのです。
市民大学の訳が適切かな?と最初思ったのですが、精神に注目し「友愛大学」とでも考えるのが適切ではないでしょうか?そんな気がしました。
教育には一定の理想がなくてはなりません。
短大も文部科学省系は2005年から卒業で得られる資格を、「準学士」から「短期大学士」に変え大学との差別化をはかっています。
ここで我々ポリテクカレッジもあわせて「友愛大学」という考え方を作れないかな?と思いました。
「地域の人に愛され多くの人にチャンスを与える友愛大学」 そんな発想はできないでしょうか?そしてもっと柔軟に単位の交換ができ、チャンスが広げられるべきだと思います。
「コミュニティの精神に注目して短大に友愛大学という発想はいかが?」ちょっとした提案です。
短大でもよいのですが、友愛の精神にもっと注目したいと思いました。
短大が強く、いろいろな進路がそこから広がるのがあるべき姿だと思います。
日本がアメリカのような柔軟性のある教育システムになりますように。
(ちょっと記事の内容に行き過ぎがあった気がしたので加筆、修正しました。)
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日本においては短大を「短い大学、教養課程のみ勉強する」という考え方が蔑視といいますか一般的に強いのですが、アメリカではどうも雰囲気的にそれだけではないことは感じていました。
教養と専門教育のバランスがひじょうにとれている気がしたのです。
いろいろ本も読み、いろいろな手段で情報収集していた中、ウィキペディアの短大関連項目を読んでおりましたら、「デンマークの教育理論を参考に戦後爆発的に拡大した高等教育機関で、短大と翻訳することは必ずしも適切ではない」と書いてありました。
では、どう訳すのが適切なのでしょうか?
もともとカレッジということばが「単科大学」という意味で、アメリカは四大でも伝統のある私大などでカレッジを名乗ることも多い、よって「短大」と訳すことにこだわる必要もないように思いました。
私はコミュニティということばに、もっと精神的な意味があるような気がします。
英語が得意でない私が言うことではないのかもしれませんが、アメリカのコミュニティカレッジは地域コミュニティを基盤としています。
そのコミュニティは「友愛」の精神により支えられています。
アメリカのコミュニティカレッジは、地域社会のみならず、広く外国人やマイノリティにも解放しチャンスを与え、民主主義においてもっとも必要な「・自由・平等・友愛」守る基盤ともなっております。
アメリカの寛大さは主に「ひじょうに強い友愛の精神」からきている気がするのです。
市民大学の訳が適切かな?と最初思ったのですが、精神に注目し「友愛大学」とでも考えるのが適切ではないでしょうか?そんな気がしました。
教育には一定の理想がなくてはなりません。
短大も文部科学省系は2005年から卒業で得られる資格を、「準学士」から「短期大学士」に変え大学との差別化をはかっています。
ここで我々ポリテクカレッジもあわせて「友愛大学」という考え方を作れないかな?と思いました。
「地域の人に愛され多くの人にチャンスを与える友愛大学」 そんな発想はできないでしょうか?そしてもっと柔軟に単位の交換ができ、チャンスが広げられるべきだと思います。
「コミュニティの精神に注目して短大に友愛大学という発想はいかが?」ちょっとした提案です。
短大でもよいのですが、友愛の精神にもっと注目したいと思いました。
短大が強く、いろいろな進路がそこから広がるのがあるべき姿だと思います。
日本がアメリカのような柔軟性のある教育システムになりますように。
(ちょっと記事の内容に行き過ぎがあった気がしたので加筆、修正しました。)

2006/7/30 12:56
4年制の大学、2年制の大学 自然(essay)
おそらくですがアメリカの場合短大というものは、「2年制の大学」という思いが強いような気がします。
「友愛の精神」は当然にしても、ユニバーシティとカレッジしかことばがないのです。
コミュニティカレッジ、ジュニアカレッジということばはあっても、「短い大学」というイメージは日本と違いなく、「2年制の大学」というイメージではないでしょうか?
4年制への転入の道があれば、4年制への昇格をめざすところも今はあまりないと思うし、それはポリテクカレッジも同じだと思います。
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「友愛の精神」は当然にしても、ユニバーシティとカレッジしかことばがないのです。
コミュニティカレッジ、ジュニアカレッジということばはあっても、「短い大学」というイメージは日本と違いなく、「2年制の大学」というイメージではないでしょうか?
4年制への転入の道があれば、4年制への昇格をめざすところも今はあまりないと思うし、それはポリテクカレッジも同じだと思います。

2006/7/30 7:09
城下町の映画、コンテンツへの利用を! 自然(essay)
小田原において7月29日(土)に城下町都市サミット開催されたということで、次のような共同宣言が出されました。
【1】歴史資産を次の世代に引き継ぐ責務がある
【2】全国城下町都市連絡協議会の設置検討
【3】二〇〇七年に開催予定の世界城下町サミットへの賛同-などが盛り込まれた。
先日は新たに城下町の遺構が発見されたニュースを見ましたが、小田原は富士山がよく見えない弱点はあるものの、箱根や伊豆にも程近く、本当によいロケーションを持っておりそのポテンシャルは高いと思います。
アルゼンチンまで映画のロケを誘致していましたが、遠いアルゼンチンもいいけど日本の城下町を活かす努力こそ必要だと思います。
そしてそれは歴史的遺産の保存にも役立つと思います。
千葉のほうの都市では、街をあげて映画やテレビのロケを誘致しておられましたが、小田原城下町の長所を活かせれば、小田原映画祭ももっと盛り上がるように思えました。
横浜に東京芸大の映画大学院がきましたが、横浜、鎌倉、湘南だけでなく、小田原もよいロケ地であることを示せるような美しい城下町になることを祈ります。
(カナロコの記事より)
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【1】歴史資産を次の世代に引き継ぐ責務がある
【2】全国城下町都市連絡協議会の設置検討
【3】二〇〇七年に開催予定の世界城下町サミットへの賛同-などが盛り込まれた。
先日は新たに城下町の遺構が発見されたニュースを見ましたが、小田原は富士山がよく見えない弱点はあるものの、箱根や伊豆にも程近く、本当によいロケーションを持っておりそのポテンシャルは高いと思います。
アルゼンチンまで映画のロケを誘致していましたが、遠いアルゼンチンもいいけど日本の城下町を活かす努力こそ必要だと思います。
そしてそれは歴史的遺産の保存にも役立つと思います。
千葉のほうの都市では、街をあげて映画やテレビのロケを誘致しておられましたが、小田原城下町の長所を活かせれば、小田原映画祭ももっと盛り上がるように思えました。
横浜に東京芸大の映画大学院がきましたが、横浜、鎌倉、湘南だけでなく、小田原もよいロケ地であることを示せるような美しい城下町になることを祈ります。
(カナロコの記事より)

2006/7/30 5:57
「仕事への意志」の大切さ 文化国家(Kulturstaat)
人々が労働することは経済の基本です。
「仕事への意志」を経営者や労働者が失えば、その社会は崩壊するでしょう。
職業意識は経済の基本でもあるのです。
日本は大昔から労働を大切にする国です。
今。皇室が田植えをしたり、蚕を育てたりするのみならず、職人歌合という働く人を対象とする歌合(短歌の歌合戦のようなもの、左右にわかれ職人を対象に短歌を作り優劣を競う)というものすらありました。
職人歌合は労働賛歌とも呼べるすぐれた日本文化でもありました。
慰労の意味もあったと思います。
そしてそれは日本経済史のすぐれた資料ともなっております。
今、「仕事への意志」を養うにはどのようにしたらよいのでしょうか?
20世紀はひたすらモノを大切にする唯物論の時代でした。
21世紀は「心」の時代だと私は思うのです。
さて、そこでけいはんなの私のしごと館です。
博物館や図書館はそのために有効な手段ではないでしょうか?
今、たしかに職業の博物館の効果がどれだけあるのかはわかりません。
しかし入館者数は、それへの需要があることを示しております。
入館者の反応もよいのです。
現場のベテランの先生からも納得していただいております。
職人歌合の世界が奈良の郊外で現代に復活しつつある気がするのです。
現代の職人歌合の世界は、若者に夢を与えることにも貢献していると思います。
若者に努力の方向性もわずかながら与えております。
「仕事への意志」を養うことは、個人の夢や幸福だけでなく、経済の発展にも大変役立ち、就職支援の資料やカウンセリング技術や、いろいろなケースの紹介をすることで、就職支援施設、就職支援図書館としてひじょうに有意義なものであると私は思うのです。
唯物論的な考え方になじみすぎた我々は、「意志の力」をなおざりにしすぎたのではないでしょうか?職業の博物館への金でしかモノを見ようとしない批判を見て、現在のモノの見方への病理すら感じています。
展示や資料収集への批判は大々的にいただいてかまいませんが、あれだけ入館者がきて、海外でも類似のキッザニアが成功していて、「必要か必要でないか」という議論はあまりにも観念的すぎ、まったくナンセンスだと思います。
大人から見れば「職業意識は経済の基本である」そのように捉えてほしいと思います。
若者へ夢を与え、先生との協力関係を築くことはやりがいのある仕事だと思います。
就職支援施設の中心として職業の博物館は存在するのだと思うし、そうならなければならないと思います。
就職支援図書館も地道ながら大切な仕事だと思います。
派手なことだけが仕事ではないわけですから。
博物館は興業ではありませんが、国の施設が小さすぎると外国から馬鹿にもされます。
先人たちが国立博物館をなぜ巨大にしたかも考えるべきだと思います。
職業の多様さを知ると共に、そのことも忘れるべきではないと思います。
けいはんなにおいてうまれる新しい技術、それにより生まれる新しい仕事、イノベーションの展示、体験の場となることも夢見られてなりません。
あれだけ巨大なのですから、展示、体験のネタが周辺からどんどん生まれ、大阪等の都市圏を流れていき、新しい上方文化がうまれ、商工都市大阪は復活する!そうなってほしいと思います。
「イノベーション都市」となれば、21世紀の万博都市にもけいはんなはなると思います。
そういった都市に、職業の博物館があることはすばらしいことではないでしょうか?
成功者やそれを支えた方は長く記念されるわけですから・・・
そのすべてのオリジンが「仕事への意志」であると最近私は考えております。
実践的な大阪人からは「仕事への意志なんて・・・」と言われそうですが、先人が東洋一の商工都市大大阪を作れたのは、「仕事への意志」そのものではないでしょうか?横浜に
いても大阪のさらに進む衰退はたびたび聞かれ、自分のささやかなしごとと奉仕が無駄になるのではないかと心配しております。
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「仕事への意志」を経営者や労働者が失えば、その社会は崩壊するでしょう。
職業意識は経済の基本でもあるのです。
日本は大昔から労働を大切にする国です。
今。皇室が田植えをしたり、蚕を育てたりするのみならず、職人歌合という働く人を対象とする歌合(短歌の歌合戦のようなもの、左右にわかれ職人を対象に短歌を作り優劣を競う)というものすらありました。
職人歌合は労働賛歌とも呼べるすぐれた日本文化でもありました。
慰労の意味もあったと思います。
そしてそれは日本経済史のすぐれた資料ともなっております。
今、「仕事への意志」を養うにはどのようにしたらよいのでしょうか?
20世紀はひたすらモノを大切にする唯物論の時代でした。
21世紀は「心」の時代だと私は思うのです。
さて、そこでけいはんなの私のしごと館です。
博物館や図書館はそのために有効な手段ではないでしょうか?
今、たしかに職業の博物館の効果がどれだけあるのかはわかりません。
しかし入館者数は、それへの需要があることを示しております。
入館者の反応もよいのです。
現場のベテランの先生からも納得していただいております。
職人歌合の世界が奈良の郊外で現代に復活しつつある気がするのです。
現代の職人歌合の世界は、若者に夢を与えることにも貢献していると思います。
若者に努力の方向性もわずかながら与えております。
「仕事への意志」を養うことは、個人の夢や幸福だけでなく、経済の発展にも大変役立ち、就職支援の資料やカウンセリング技術や、いろいろなケースの紹介をすることで、就職支援施設、就職支援図書館としてひじょうに有意義なものであると私は思うのです。
唯物論的な考え方になじみすぎた我々は、「意志の力」をなおざりにしすぎたのではないでしょうか?職業の博物館への金でしかモノを見ようとしない批判を見て、現在のモノの見方への病理すら感じています。
展示や資料収集への批判は大々的にいただいてかまいませんが、あれだけ入館者がきて、海外でも類似のキッザニアが成功していて、「必要か必要でないか」という議論はあまりにも観念的すぎ、まったくナンセンスだと思います。
大人から見れば「職業意識は経済の基本である」そのように捉えてほしいと思います。
若者へ夢を与え、先生との協力関係を築くことはやりがいのある仕事だと思います。
就職支援施設の中心として職業の博物館は存在するのだと思うし、そうならなければならないと思います。
就職支援図書館も地道ながら大切な仕事だと思います。
派手なことだけが仕事ではないわけですから。
博物館は興業ではありませんが、国の施設が小さすぎると外国から馬鹿にもされます。
先人たちが国立博物館をなぜ巨大にしたかも考えるべきだと思います。
職業の多様さを知ると共に、そのことも忘れるべきではないと思います。
けいはんなにおいてうまれる新しい技術、それにより生まれる新しい仕事、イノベーションの展示、体験の場となることも夢見られてなりません。
あれだけ巨大なのですから、展示、体験のネタが周辺からどんどん生まれ、大阪等の都市圏を流れていき、新しい上方文化がうまれ、商工都市大阪は復活する!そうなってほしいと思います。
「イノベーション都市」となれば、21世紀の万博都市にもけいはんなはなると思います。
そういった都市に、職業の博物館があることはすばらしいことではないでしょうか?
成功者やそれを支えた方は長く記念されるわけですから・・・
そのすべてのオリジンが「仕事への意志」であると最近私は考えております。
実践的な大阪人からは「仕事への意志なんて・・・」と言われそうですが、先人が東洋一の商工都市大大阪を作れたのは、「仕事への意志」そのものではないでしょうか?横浜に
いても大阪のさらに進む衰退はたびたび聞かれ、自分のささやかなしごとと奉仕が無駄になるのではないかと心配しております。
