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2006/4/23  7:37

夫余族の朝鮮半島南下と和国(日本)  文化国家
 韓国の歴史を読んでいると、理解に苦しむことがあります。
 三韓と高麗(高句麗)のところで、高麗と百済は夫余族(扶余族)が建国し、しかも王が血縁的にもかなり近い間柄にあったとされ、そしてそれについて詳細に説明をしながら、「歴史的事実とは必ずしも認められない」と変な言い方になるのです。
 たしかに伝説、神話ではあるのですが、夫余族とそれを中心とする部族の移動があったことはたしかなように思えます。
 この夫余族なのですが、ツングース系つまり満州族に近い部族で、生活は農耕と牧畜の双方を行い、戦争にあっては馬に乗り戦う、そのような質実剛健の部族であったと言われます。
 イメージとしては、後の満州族とほぼ同じと考えて間違いない!
 その夫余族が他の部族に圧迫され、一部が朝鮮半島に異動したと言われるのです。
 ところが夫余族=韓族ではないのです。
 これが重要なのですが、韓族はその建国神話である檀君神話からいっても日本に近いことは知られながら、やはり韓国独特なものが多くあります。
 韓族の起源もひじょうに古いのです。
 韓族は夫余族の半島南下以前に、すでに民族として成立していたというのが私の実感です。
 夫余族は征服者にありがちですが韓族に対し少数者であり、故郷との風土の微妙な違いと、多くの共通点の中で韓族と同化していったのだと思います。
 韓国人のはげしい国民を見る中、「勇猛な夫余族の伝統がどこかに残っているのだなあ」と思うこともあります。
 日本の歴史の中で、大きな問題として「夫余族は海を越えて日本にきたのだろうか?」という大きな問題があります。
 私は古事記の中にそのような記述がないので、軍団としてきたことは考えにくいのですが、夫余族による三韓の成立と、特に百済の成立により、そこから多くの技術、特に馬に関連する軍事技術が日本に伝えられたと思うのです。
 大和朝廷は百済と特に深い関係があり、初期から百済の半島における軍事行動においても協力関係にあったとも言われます。
 百済の建国そのものに和国が協力したとも言われるのです。
 百済は後に仏教を取り入れて文化国家となりますが、初期の頃はもっとも夫余族の強い血をひいた半島最強の軍事国家でした。
 高麗(高句麗)にも勝ち王を戦死させたこともあるし、そもそも今の韓国の都ソウルに最初に都を置いたのも百済です。
 ソウルは「夫余族の都」だったのです。(ピョンヤンも高麗(高句麗)が夫余族ですから同じですが・・・)
 百済から多くの軍事技術を輸入し、大和朝廷は水軍を使って協力し、貿易にも協力する。
 そのような貿易と半島の軍事行動を通じた、百済と和国との協力関係があったように思うのです。
 そして後には国のスケールの違いから、和国のほうが強くなるような現象がおこったのだと思います。
 百済と和国は貿易と軍事行動で特に深い結びつきがあった!そのように思います!
 和国において古墳時代に、和人そのものの体格が向上し大陸の人に近くなり、夫余族や韓族の移動はあったと思うのですが、征服者というよりわりと経済関係を通じた平和的な移住であり、むしろ主体的に導入された軍事技術が大和朝廷の強さへとつながったと思うのです。
 海があった点、日本はやはり恵まれていたと思います。
 出雲の銅鐸にも見られるとおり、大陸から技術を導入しても作るものはオリジナルなのが和国の特色で、それをイミテーションかお守りのようにして、半島に輸出すらされていたようです。
 そして和国の恐怖は、いつでも大陸からの勢力が海を越えてやってくることなのです。
 夫余族は中国文化を大陸にいたときすでに受け入れていたと言われますが、やはり軍事部族としての韓族にとっても和人にとっても「恐怖の征服者」であった。
 そして韓国人の行動習慣、和人の行動習慣にもどこかに夫余族の影響が残っている気がするのです。
 侵略的な感じを日本人が韓国人に持つのは、夫余族への恐怖なのかもしれません。
 海と貿易がなければ夫余族は止められなかったようにも思えます。
 夫余族のことがもっとわかれば、歴史の真実がもっと見えてくると思います。
 古代史シリーズ6回になってしまいましたが、これにて休止、明日からは別の話題で・・・と思っております。
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2006/4/22  11:59

邪馬台国の金印はどのように使われたのか?  文化国家
 私が不思議に思うこととして、邪馬台国はなぜ金印をほしがったかということです。
 大和朝廷は漢族王朝に金印を求めたことはなく、奴国と邪馬台国のみに独特な行動だからです。
 少し推定されることとして、奴国は後漢、邪馬台国は魏から金印をいただいております。
 後漢の後、漢族の正統王朝として登場したのが魏です。
 魏は最終的に中国を統一することができなかったのですが、魏、呉、蜀の三国の中で圧倒的な力をもち、和国にもっとも距離的にも近かったのが魏でした。
 その魏から金印を授かることは、奴国の持つ金印の無効にすると共に、「魏の和国における総代理人」のような地位を与えられたことになります。
 「邪馬台国は魏に認められている」ことを対外的に示せれば漢族、半島相手の商売にきわめて有利であり、和国でも「魏の商売における和国代理人」のような役割をはたすことができます。
 小国分立の時代であればこそ、必要な権威だったと思います。
 外国船をその権威により、寄港させることも可能です。
 漢族のもたらす商品を一手に扱うことも可能です。
 私は、貿易や商売においてきわめて有利であることが、金印を欲しがった主理由であったと思います。
 そもそも日本(和国)が中国に常に求めることは貿易なのです!
 奴国や邪馬台国は北九州の貿易国家であると考えられるので、信用の拡大に役立つ金印は、漢族王朝にとってはいぶかしげに渡しながらも、和国の一小国にとっては大変な力になったものだと思われるのです。
 航海の安全においても、「邪馬台国の船か?あいつら皇帝から金印をもらった国だなあ」と海賊をおびえさせることもできます。
 印鑑は原則として文書に捺すものですが、当時の印鑑がどのように使用されたかほとんどわかっておりません。
 残念なことに当時の貿易に使用された書類も、ほとんど発見されていないのです。
 発見されれば大発見だと思います。
 竹簡でも出てくればさらに大発見だと思います。
 漢文の文書でもどこかから出てくれば、古代の貿易の実態がわかるのではないか?と期待しております。
 ちょっと興味本意ですが、金印は実際に文書に捺して使用されたものでしょうか?
 奴国の金印は使用されていたような雰囲気はありませんが、もし実際に外交文書に捺されて使用されたとすれば、他国には大変な威圧感になったと思います。
 思い出すことは室町時代の勘合貿易です。
 あれは勘合符・・・割符の役割をはたしたものですが、金印を交易をしたい国への通商外交に使用したとすればどうでしょうか?
 使用しないにしても、後世のお墨付きのようなものであり、効果絶大であったと思います。
 漢族相手の貿易には特に効果絶大であったと思います。
 和人にはあまり権威としては意味のないものであっても、貿易に役立った側面は否定できない、北九州の海洋国家であればこそ、「金印をいただく」というアイデアは出てきたのだと思います。
 ひょっとすると邪馬台国や奴国の王宮は、大和も含めいろいろな国の下賜品があり、それを貿易や外交に使用していたのかもしれません。
 私が「したたかな貿易国家」と呼ぶ由縁です。
 邪馬台国が魏の使者に言った「漢族の子孫」等の発言は、商売人の根性を感じてしまうのです!
 「和人には与えられなくても、漢族の子孫であり風俗も近ければ」・・・、そんなパフォーマンスも倭人伝から感じるのは私だけでしょうか?
 貿易や商売から邪馬台国を見るのも、おもしろいのかもしれません。
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2006/4/21  6:18

大和朝廷と水軍勢力  文化国家
 大和朝廷は豊富な強い水軍を持っていました。
 もともと日向(宮崎県)を地盤としており、今となっては信じられないのですが、日向
は飛鳥時代あたりまでは馬の生産地としても名高い地域でした。
 神武天皇はそこから畿内征服へと行ったわけですが、数年間は瀬戸内海でせめぎあいをしておりました。
 畿内征服は、瀬戸内の水軍を持つ豪族の力がなければ不可能なことです。
 後世戦国時代においてもそうですが、瀬戸内海と熊野、九州、水軍を味方につけなければ、畿内を中心とする政権はとれません。
 経済動脈としても瀬戸内海は重要であり、豊富な船の所有は王権の確立に大きく貢献したと思うのです。
 我々は、いまだ江戸時代の感覚が抜けませんが、室町時代の細川、山名、大内といった有力守護大名は豊富な船舶を所有し、船舶所有量がその大名の実力を示しているといっても過言ではありませんでした。
 山名氏などは、米は必ずしも多くとれない但馬(兵庫県北部)を基盤としながら、富強であったのは、豊富な船舶の所有にあったと言われているのです。
 大和朝廷もまた、初期の頃から水軍を持つ豪族の支持を得て海の安全を守った。
 海の安全は強力な政権がなければ守られませんので、海からの視点で見ると大和朝廷がなぜ必要とされたか?その必要性が見える気がするのです。
 朝廷は権威であるので、一定の自由をもつことができる。
 水軍勢力としては、もっとも支持しやすかったと思います。
 紀氏あたりが水軍勢力としてはもっとも有名ですね!
 強力な軍事力を持つ大和朝廷の存在は、航海の安全を守り和国の経済力を発展させた!
私はそのように思います!

 ひとこと

 あらためて、昨日倭人伝と唐書、旧唐書等の記憶が混乱していました。
 参考図書が手元にないのでどの王朝の史だったか確認できないのですが、古田武彦先生の本です。
 後世の史で、魏志倭人伝の補足をしているのです! 
 あまり有名ではありませんが!
 無視するのはひどいとは思います・・・!
 ともかくおわびのうえ、ログを修正させていただきました。
 ごめんなさい。トシかなあ・・・
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2006/4/20  6:17

大和朝廷と邪馬台国  文化国家
 いろいろなコメントありがとうございます。
 邪馬台国はやはり皆さん興味おありなのですね・・・驚きました。
 邪馬台国の場合、倭人伝(間違えました旧唐書か唐書でした)「陸が少なく水が多い国である」「阿蘇という山がある」等、どう見ても九州の自然の描写としか思えない記述があること、また国主の継承方法が大和とはまったく違うこと、周辺をライバル国に囲まれた国である等、北九州としか思えないのです。
 北九州は経済的には豊かであったものの、統一が進みませんでした。
 後にも先にもまとまったのは「磐井の乱」のときのみだと思います。
 その点軍事的には大和のほうが優勢であったのでしょう。
 邪馬台国が大和とも交渉があったとすれば、中国とちょうど中間点に位置し、貿易立国、農業国として有力であったと思います。
 経済的には豊かであったものの、北九州にある国の一つであったと思います。
 日本は朝鮮半島では百済との関係を重視しましたが、中国との貿易という見地からすると、日本海側にある新羅より、東シナ海に面した百済のほうが重要であったことは当然のことです。
 実際、仏教も百済経由で日本にきているのです。
 大和朝廷自体が膨大な大水軍(船舶)を擁する、大阪湾、瀬戸内海を中心とした大海運国家であった可能性が高いのです。
 「大和と中国を結ぶ中継基地」それが邪馬台国の姿だと思います。
 たまたま記録が残っているため、大きな国に見えるだけだと思います。
 和国の中心そのものは、古代から大和であった・・・私はそう思います!
 大体、魏志倭人伝は「和人」が主題であり、和国そのものが邪馬台国であるなんて一言も書いてないのです。
 意外なことに・・・
 文化人類学のような記述で、「見たものを書いた」そのように思えます。
 邪馬台国は魏に使節を送り親交を結びながら、大和や半島とも関係を持つ、そのようなしたたかな貿易立国であったと思います。
 
 
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2006/4/19  6:24

邪馬台国は北九州の豊かな貿易国家だった?  文化国家
 神功皇后について書くと、どうしてもこちらについても触れてみたいと思いました。
 古代の日本の航海術については謎が多く、日本と中国の間に定期航路のような存在したかどうか?神功皇后は大水軍を率いて戦い、和国は歴史の記述からは「常に大水軍をもって戦った」ということははっきりしていると思います。
 当時の船はおそらく軍船と商船の違いがはっきりしていなかったはずで、そうしてみると和国は「大貿易国家」であったとしか考えようがないのです!
 和国は早い段階から「貿易相手」として、中国に注目していたのではないのでしょうか?
 邪馬台国は私は、古田武彦先生の説に近く九州、吉野ヶ里かその近辺であったと考えております。
 大和朝廷とはまったく違い、おそらく九州の経済的には豊かながら小国ではなかったか?と思うのです。
 倭人伝を私なりに素人読みするとそのように感じます。
 そして彼らが、魏に使者を送った理由は「正当な和国の支配者として認めてもらう」ことではなく、「貿易が主目的」ではなかったかと思うのです。
 彼らが倭人伝の記述が正確で、漢族の子孫を名乗っていたのなら、今でいう華僑だと思うのです。
 風俗は完全に日本化しております。
 当時の中国語も自由に操る、商人であった可能性が高かったと思うのです。
 そして政治的には不安定な、軍事力の弱い国であったように思います。
 彼ら自身「東にもう一つ強国がある」ような発言をしていたようであり、「正当性にこだわる魏に対し、貿易にこだわる邪馬台国は都合の悪い情報は隠そうとした!」そのように思えてならないのです。
 
 ひとこと
 あかひでさん気を悪くしたらごめんなさい。

 横浜ベイスターズ!吉見はともかく門倉は先発から外せ!いい加減にせい!

 記事がイライラするのはベイスターズが負けてるせいだー
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