アメリカンフットボールのことを「フィールドの格闘技」というそうだ。
そういやサッカーとかでもそういう呼ぶと聞いたことがある。
だけどね、ずっと格闘技やってきた人間からすると「なんか変やね」という違和感がある。
昔、同い年で同僚だった河瀬くんと学生を含めて何人かで話してた。
河瀬くんはラグビーの元日本代表。高校時代、花園で初優勝し、明治大学に進学。社会人でも活躍した後、大学教員をやってる。
「ラグビーは紳士のスポーツ」と言うから茶化してやった。
「元々ルールを破った奴が始めた競技じゃねえか。柔道はルール無用の殺し合いやったのが、ルールを決めて殺さんように競技としてやってるんやで。どっちが紳士や?」と。
そう。ラグビーは、サッカーの試合中にボールを手で持って走り出したことが起源とされている。
「そらそやな」って彼も笑ってたっけ。
サッカーやラグビー、アメリカンフットボールの競技としての本質は、敵陣にボールを運ぶことにある。その手段として相手にタックルしたり、ブロックしたりという肉体的な接触がルールの下に認められている。あくまでボールを運ぶことが競技の目的であり、肉体的な接触はその目的を達成するための手段に過ぎない。ましてや、相手を傷つけることが目的ではないはずだ。
一方、格闘技の本質は相手にダメージを与え、戦闘能力を殺ぐことにある。
本質は殺し合いであり、その技の多くは殺人のための技術だ。
だけど、その戦闘能力を向上させる訓練時において、常に殺し合いを繰り返すことはできない。だから、防具やルールが生まれた。それがスポーツという形で昇華される過程でさらに厳格なルールが決めていかれたのだ。
本質は、殺し合い。だから、ボクシングでは、相手が傷を負えばそこを狙い撃ちする。一刻も早く相手の戦闘能力を殺ぐために。
柔道は、明治時代に「教育手段」として生まれた。
創始者・嘉納治五郎師範の遺訓には、
「柔道とは、心身の力を、最も有効に使用する道である。その修行は、攻撃防禦の練習により、精神身体を鍛錬し、その道の真髄を、体得する事である。そして、是によって、己を完成し、世を補益するのが、柔道修行究極の目的である」
とある。柔道は教育手段なのだ。
あまり知られていないが、柔道には競技としては使わない技が多くある。当身――打撃も当然ある。刀で斬りかかられた際の対処法、ピストルを突き付けられた際の対処法まで技としてある。本質は殺し合いやからね。
だけど、教育手段としての柔道の訓練で行われる「乱取り」は、数多ある技の中から「相手を傷つけずに制する」技だけをもって行われている。だから、自分の脚部を使って相手を倒す技は、「蹴り」ではなく、相手を傷つけない足の裏を使う「足払」が用いられるのだ。
だって、蹴ったら痛いやん。
本質は、殺人技術なんやけど、「教育手段」だから、「相手を傷つけずに制する」訓練が行われ、競技になっていったんやね。
大学在学時に四段を取得した。柔道は四段からが指導者になる。指導者になって30年以上になるわけやから人生の半分以上を指導者として過ごしてることになる。現在は、五段。もう20年以上、五段をやってるんやなあ。
四段昇段を機に師匠からは「指導者としての柔道」をきつく諭された。
かつて先輩から「お前のは柔道ではなく、“獣”道」と揶揄された僕の柔道を本質から変える必要があった。
30代になって、大学で就職支援の仕事をしてるとき、別の師匠から言われた。
「柔道の本質は、個々の持つ心身の能力を有効活用させ、切磋琢磨していくことにある。職業に就くことを通じて、個々の能力を伸ばさせ、社会に還元させることは、柔道と共通することだ。道場で、道着を着て、技を教えることだけが柔道ではない。お前は、その仕事を柔道の指導だと思いなさい」
目から鱗が落ちた思いがしたのを覚えている。この仕事が天職なんだと感じた瞬間だった。
さて、件の「フィールドの格闘技」だ。
「相手を潰せ」というのは、その競技の本質ではあるまい。
ましてや、「教育」であるとは思えない。
それとも、「目的を達成するためには手段を選ばない」というのが、教育理念なのだろうか?
その理念の下では、嘉納師範の仰る「世を補益」することにはつながらないと僕は考える。

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