4月に再就職した。
2007年3月まで勤務していた医療法人に出戻ったのだ。
事情はいろいろあるけど、それについてはまたの機会に…。
さて、この職場、大阪ビジネスパーク(OBP)にある。
僕が子供のころ、この辺りは長く廃墟のままだった。
もともとこの場所には、大阪砲兵工廠があった。
旧陸軍の当時アジア最大規模の兵器工場だったのだ。
子供のころのイメージは大阪環状線に乗って京橋から森ノ宮(当時は大阪城公園駅はなかった)に行く途中、錆びて赤茶けた廃墟の天井に大きな穴が開いたままの建物が風雨にさらされていた。
親父が指さしながら、「あれは1トン爆弾の跡やな。不発弾やったんやろ」って言ってたのを思い出す。
「99式艦上爆撃機で250kg爆弾搭載やのに、1トンの爆弾ってむっちゃでかいやん」って思ったのを覚えている。
大阪環状線は、不発弾処理でしょっちゅう停まってたし、この辺りは大阪の中心に位置しながら、なかなか再開発が進まんエリアやったんやね。
この辺りが大規模な空襲に遭ったのは1945年8月14日。敗戦の前日だ。
京橋駅には、今も慰霊碑が立っている。
お袋の妹の允子(ちかこ)が、このあたりで風船爆弾を作ってたそうで、空襲で真っ赤に燃える大阪市内の空を、疎開先の四條畷から見ながら「妹は死んだな」とお袋は思ったらしい。
ところが、允子は、片町線(今のJR学研都市線)の線路を歩いて翌日帰宅したらしい。
その日が敗戦の日。
そういえば、大阪城が戦場になったころから、この周囲では多くの死者が眠っている。
だからね・・、
この建物でもいろんな気配を感じる。
エレベータホールでも、開け放された会議室でも、
いるはずのない人の気配を感じるんやね。
まあ、仕方ないね。
迷わず成仏してな。

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