「目で物を見てるんとちゃうねんで」
独特のやんちゃな悪戯っ子っぽい笑顔で、こう教えてくれたのは、大阪大の元副学長、森田敏照博士だった。
曰く、受精卵が細胞分裂を続ける過程で脳の一部分が飛び出て目になる。目は感覚器でありながら脳の一部なのだ、と。「目」そのもので物を見ているのではなく、目から入った情報を脳が処理することによって「見えている」のだという。
なるほど、そもそも水晶体のような凸レンズだと映る画像は天地が反転しているはずだし、あれほどの広角レンズだと画像の歪みも生じているはずだ。そもそも目ぇって2つやん、ってことだ。蜻蛉なんかの複眼だって理解ができる。
自分自身が柔道やボクシングをやっているときに感じた感覚――自分の目が、自分の後方から自分の後ろ姿を通して「見えている」感覚も合点がいくし、Déjà vu――既視感なんかも説明がつく。
自動車の「アラウンドビューモニター」なんてのも、この応用技術なんだろう。
中川圭永子(なかがわ・けえこ)を観た。
独り芝居「贋作 ミスワカナ」だ。ミスワカナは昭和初期の漫才師。相方の玉松一郎とのテンポのいい夫婦漫才のスタイルは、嫁が喋くり倒し、夫がしどろもどろに対するスタイルの原型ともなったという。もちろん、僕はライブで見たことはない。
中川圭永子とは、四十年近く前に出会っている。「当時はセーラー服を着ててんで」と本人は言うが、全く記憶にない。ただ、当時からの行きつけの飲み屋、相合橋筋の正宗屋の関東煮の前で小っちゃい娘が手伝っていたのは記憶にある。当時の正宗屋は、現在の店舗の斜向かいにあったんやけど、細長い造りの店舗の一番奥まったところにいたように覚えている。
いつの間にか姿を見せなくなった彼女は上京し、結婚して二人の息子を儲けていた。
SNSってのは、恐ろしい。
以前はSNSの主流だったMixiに、僕が「名店・正宗屋のお勧めメニュー」なんてのを掲載し、それが話題になったりしている間に、何やらいろいろつながって、「ありゃ、あんたあの頃おった娘なん?」と再会に至った。
一度、東京で彼女が出演するという演劇を観に行ったこともあったが、その日は彼女の出番はなく、彼女が演じる姿を実際に目にしたことはなかったんやね。
だけど、正直言って、演劇ってのはあまり好きじゃない。
昔、職場の後輩が出演するってんで、扇町の小屋に観に行ったこともあるけど、あのアングラで自己満足的な雰囲気――「みんな分からへんやろけど、自分らはこんなカッコええことやってるんやぞ」的な雰囲気が馴染めんのやね。
だから、彼女が独り芝居を演るって言っても、あんまり乗り気やない自分がいた。
一方で、一つだけ気になっていることもあった。
それは、何年か前から彼女の視力は著しく低下しており、今ではほとんど視野がない状態であることだった。白い杖をついた小っちゃいおばちゃんが、何をどう演じるのか、それは気になっていた。
果たして彼女は1時間ほどだっただろうか、たった独りのステージを最後まで演じきった。
独り芝居だけど、彼女には、しどろもどろの相方の姿が見えていたように感じたし、僕にも確かに見えた。
荘子曰く、死生一如なら、何かが滅するとき何かが生まれる。
なるほど、彼女は、失った以上の「視覚」を得たのかもしれない。目で「見ている」のではなく、脳で「見えている」のなら、それも合点はいく。
千秋楽の翌日(といっても公開ゲネを入れて3日間やったから、初日・中日・千秋楽なんやけど)、彼女の実家、相合橋の正宗屋で一緒に飲んだ。独りでミスワカナの墓参りに行ってきたという。
ヒロポンを打つ演技なんて話もしたし、「未熟児網膜症で元々視覚がなかったスティーヴィー・ワンダーと子供のころは視覚があったレイ・チャールズとでは『見えているもの』が違うんだろな」なんて話もした。
There's more to the picture than meets the eye. ( Into The Black by Neil Young)
そう。目に映る以上のものは確かに存在する。
目からは大量の情報が流れ込んでくる。目を開けていることで、その情報量に翻弄されてしまい、逆に「肝心なもの」を見逃しているのかもしれない。
時には、目を閉じ、残る四感を研ぎ澄ますことで、「見えていなかった肝心なもの」は、見えてくるかもしれへんよ。

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