国会では、民主主義の根幹を揺るがすような暴挙が行われている。
親父が元気やったら、怒り心頭やろな、とも思う。
だけど、ふと思うのはこの100年間でのメディアの多様化だ。
日本が戦争への道を歩み始めたころは、マスメディアといえば、新聞とラジオ。
それも全ての世帯に情報が流布されていたわけじゃないだろう。
国会で何が行われているか、一般庶民には知る由もなかったんだろうな。
現在も政府によって情報は統制されている。
だけど、僕らは国会周辺で何が起こっているのか目にすることができる。
地方にいても海外にいても多様な情報の入手手段がある。
たとえ、操作された虚偽の情報であっても、入手する手段はいくらでもあるわけだ。
その情報の真偽を確かめたければ、現場に出向く交通手段も100年前と比べれば格段に進化した。
実際にその目で確認することも容易になったわけだ。
「鬼畜米英」との喧伝を鵜呑みにせざるを得なかった時代とは異なる。
僕のガラケーですら、海外の友人からのメールは受信できる。
彼の国で「反日運動」が起こっている、なんて言われても、その国の友人が僕のことを憎んでいないことを僕は直接理解することができる。
それだけにな・・・って思う。
100年前は知る由もなかったから政治家の暴走に従わざるを得なかった。
だけど、今、僕らは自分の頭で判断するだけの情報を知り得ることができる。
これで、同じような暴走に従ったなら、子供たちに合わせる顔がない。

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