駅構内の看板にも
電車内の広告にも
新聞の紙面にも
ラジオやTVのCMにまで
ここんとこやたら目にするのが、大学の広告
いつから、こんなんが当たり前になったんやろ?
「少子化に伴う“大学全入時代”には、受験生の獲得が至上命題である」
経営者連中はそう言うんだろう。
確かに教育機関は、学生が集まらなければ成り立たない。
だけどね、
その決して安くはない広告費の原資は
“今”在籍している学生の学費でしょ?
本来は、その学生に対する教育と研究のレベルを維持・向上させるために使われるべきもんでしょ?
「けしからん」
と本来、怒るべきはずの学生は、そんなことに気づかされていない。
そもそも、その学費が自分に対する“投資”であるって意識すら希薄だから、「休講」の表示に大喜びする有様だ。
教育・研究に投じられるべき経費が、経営を維持するため、莫大な広告費に費やされる…
日本の大学のレベルが脆弱なものになるのは当然だわ
僕が私学の広報担当をやってた1980年代後半。すでに、「18歳人口の急減」が大学経営を脅かす問題になることは共通認識としてあった。
当時、多くの企業でも流行った「CI(Corporate Identity)」を捩った「UI」なる造語も普通に使われていた。
だけど、当時の広報担当に課されていた命題は、
「如何に広告ではないやり方でメディアへの露出は図るか」
それが最も効果的なパブリシティだし、それを如何に実現するかが、広報担当の腕の見せ所だった。
「昔が正しかった」と殊更に主張するつもりはない。
変化に適応することが生き延びる種であることは、チャールズ・ダーウィンの主張するところでもある。
しかし、「方法論」をもって「本質」を形骸化させてしまっては意味がない。
大学を取り巻く環境で言えば「臨時定員の一部恒常定員化」という事由があった。
「臨時定員」とは、団塊Jr.世代が大学進学する1980年代後半から各大学は定員以上に学生を受け入れることができると認めた制度である。
本来、大学や学部の新設には、設置認可の基準が設けられ、定員に見合うだけの施設・設備、教育スタッフの整備が厳密に求められる。教育・研究効果が果たせるだけの初期投資を行う必要があるわけだ。実際、僕自身、1997年にその新しい学部の環境整備のために8億円を使ったことがある。
臨時定員は、そんな初期投資を行わなくとも、各学部で定員を水増しできるわけだから、大学経営にとっては非常においしいことになる。
ただ、その後には、「18歳人口の急減が待っている。臨時定員は、1999年に廃止されるはずだったが、それでは経営が成り立たないとの大学からの歎願で、文科省は公立大学と私立大学の臨時定員の一部恒常定員化を行う。
これは文科省が「潰れる教育機関が出てもやむを得ない」という判断を行ったと言うことだ。大学は、1990年代後半まで「団塊Jr.バブル」を引き摺ってきたのだ。
さらに小泉構造改革が追い打ちをかける。
それまで厳格すぎるほど厳格だった大学設置の許認可が格段に緩和されたのだ。
雨後の筍のように大学・学部が新設される結果になり、大学進学率は大きく伸びた。
大学経営で言うと、文系学部は「利益率」が高い。教室と図書と教員がいれば事足りる。
基本的に大学の学部は設置認可を受けてから4年間は文科省の管理下にあるが、4年を経過すると「教授会」が完成したとされ、基本的な運営は教授会の“自治”に委ねられる。
設置認可申請の際には、「マル合教員」と呼ばれる、高い水準の教員が必要になるが、完成年度以降は、非常勤講師の活用で人件費の抑制も可能になるわけだ。
ところが、理系学部はランニングコストが非常にかかる。授業料は高くても、コストも高いから、当然利益率は落ちることになる。
理工系はもとより、医薬系に至っては、僕が広報を担当した1980年代後半で、実験動物は犬が20万円、ラットやマウスが数万円した。20万円の消耗品と言うわけだ。
だから、文系学部がやたら増えた。
戦後のこの国の復興が、「加工技術立国」であったことは周知のことである。
だけど、この技術者の養成に対して、国は何らの政策を打ち出しては来なかったわけだ。
同じように本質を見誤った政策がある。
「職安法」は、本来、人身売買を規制するため、職業紹介については公共職業安定所のみがこれを取り扱うこととした法律だ。
職業紹介の基本は報酬を得ず、「無料」で行うべきもの、ということなのだ。
実際、以前は、ごく一部の職種でのみ「有料職業紹介事業」は認められていなかった。
だから、大学等の就職担当部署が行う業務は、職安法第33条の2で定められた教育機関における無料職業紹介事業である。
これを改正させるために起こった贈収賄事件がリクルート事件なんだけど、なんとまあ、現在では「有料職業紹介事業」はどの職種でも原則自由と法改正されてしまった。
要は、職安の連中がちゃんと仕事できひんから、民間にやらせてしまえ、という小泉改革特有の理論だ。
本来は、“公僕”どもが、ちゃんと仕事しとりゃ、済む話だったんやな。
「教育」は“国家百年の大計”と言われる。
教育現場に、「営利」が持ち込まれたことによって、この国はますます疲弊していくのかもしれない。

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