表現ってのには「意思」が必ず現れるわけではないのだけど、「意思」は必ず表現に現れる。
だから、「どう表現するか」という方法論はナンセンスなんだけど、「なぜ表現するか」「何を表現するか」といった本質は、その「意思」が強ければ強いほど、必ず表現に現れる。
それがたとえテクニック的には稚拙なものであっても伝わるものは伝わるし、それが秀でたテクニックに裏付けられたものならば、さらにその意思は明確に伝わってくる。
だけど、表現の豊かさは、必ずしも表現手法の豊富さと比例はしない。
表現手法がツールとして多ければ多いほど、表現としては貧困になることだってあるだろう。
たとえば、中学生の修学旅行で、広島の原爆記念館で見た被爆者の絵は、どんな絵画のテクニックをも凌駕するほど「リアル」だ。これらの絵を見て連想したのがピカソの「ゲルニカ」。
これらの絵は、二次元の表現なんだけど、三次元から四次元、つまり「空間」と「時間」が集約されている。
二次元という限られた表現だからこそ、爆弾の衝撃波や熱風、人々の声にならない悲鳴や呻きなんかも、人は自分の想像力の中で体験できるのだ。
講談社のモーニング誌の広報では、今夜遅くにアニメ「蒼天航路」が始まるはずだが、うちの新聞のテレビ欄を見る限り、関西圏での放映はまだ行われないようだ。
アニメ?
無理だろ?
って思った。
たったひとコマに四次元の要素が凝縮された作品だと思っている。
静止しているはずのひとコマが、信じられないスピードで、動き、跳ね、呻き、叫ぶのだ。
表現手法が二次元に制限されていた中で為し得た表現が、アニメというセルを重ね合わせることによって生まれた空間と、動画によって生まれた時間と、さらには作られた模擬的な音声というある意味“恵まれた”表現環境で殺がれはしないか。
まー、違う作品として見るのが賢明だろな。
作品の出来よりは、それが商業的成功につながるかどうか、さらにはそのことが生む次の可能性こそが僕の興味ではある。

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