自分も審判員の資格を持って、ジャッジメントする立場やから言うわけやないけど、人間がジャッジするんやから、ミスはなくならん。絶対ある。
特に今はどの競技も昔と比べて高速化してる。ジャッジをやってる連中ってのは、その競技の一線を退いた連中がやってたりするのだから、そのスピードについていけないことだってある。ましてや、その競技経験の浅い者が、ジャッジメントを行う場合、高度なレベルの技が理解できないケースだってある。
肝心なのは、そのミスを補完するシステムを導入するのか、ミスを含めてジャッジメントの裁量と容認するのか、だ。
どちらを選択するのかは、その競技をどのような哲学で捕らえるかだ、と僕は思う。
随分、昔の関西学生柔道選手権でのこと。個人戦の決勝は、同じ大学の選手同士となった。日ごろから稽古してる仲だ。当然、手の内も知ってるし、やり難い。互いに緩慢な試合運びになったと言う。
その時の審判は、その大学の指導者であったH先生。徐(おもむろ)に二人に近づくやそのグローブみたいに大きな両の掌(たなごころ)で二人の背中を「バァーーーーンッ」と叩いた。この無言の気合に二人は人が変わったように攻めあったという。
これが今の柔道なら、審判は例の胸の前で両手をくるくるっと回す動作をして双方に「指導」と告げるだけだ。それが厳密なジャッジメントだ。
だけど、H先生の平手打ちには、「お前たちは、今、関西学生柔道の最高峰の試合をする立場にある。それが何という様だ。そんなことを日ごろから指導しとると思うのか」という無言の檄がある。
柔道は、五輪競技の中で唯一、そのジャッジが日本語で行われる競技だ。
だけど、国際化、競技化が進むに連れてジャッジの過程での日本語は制限されるようになった。
昔は、「服装を正せ」だの「もう少し攻めろ」だの、ジャッジメントに定められていない日本語で試合進行を普通に行っていた。それが国際化すると、一方の人間にしか解せない言語で指示を行うことは公平な競技運営とは言えなくなる。だから、柔道でも奇妙なジェスチャーが増え、日本語による指示は制限されるようになった。
現在、柔道の技の効果は、「一本」「技有」「有効」「効果」に分類される。1970年代初頭まで、これらは「一本」と「技有」しかなかった。「有効」は当初「技有に近い技」と称され、そのコールも試合中にはなされなかった。極め技を欠いたまま試合が終わる。判定のコールの際に主審が、「先ほどのあそこでの赤の技を『技有に近い技』とします。赤の優勢勝」という曖昧な表現でジャッジが行われていた。試合してる当の本人たちも「先ほど」がいつで、「あそこ」がどこで、その技がどの技やったのか、はっきりせんままに勝敗が定められていたわけだ。微妙な判定は、主審が副審を呼んで協議する。僅差判定で副審2名が赤旗を挙げていても主審が副審を呼んで協議の結果、判定が覆り白の勝ちになるってことだってあった。だけど、現在は、主審が「技有」をコールしても副審2人が「有効」と「効果」を示した場合、主審はその技の効果を「有効」に訂正しなきゃならない。
主審の権限失墜を懸念する声もあるが、見る角度も観点も主審と副審では異なるのだから、合理的といえば合理的かな、とも思う。青い柔道着にしても、柔道の精神性に重きを置くならば、反対の声も挙がるのだろうが、ジャッジメントを行う立場からすると、非常に分かりやすくてよい。
以前も書いたことがある。ある五輪の決勝で日本人選手が施した背負投は、不十分だった。せいぜい「有効」しかない。だけど、外国人の主審は「一本」をコールした。大喜びの日本コーチ陣。だけど、日本が柔道の宗主国としての威厳を保つためには、この時こそ「有効」に訂正し、試合を継続させるべきではなかったか、と僕は今でも確信している。
4年後、今度は重量級の第一人者が、ミスジャッジで敗れるという事態が起こる。選手本人は敗北を潔く受け入れたものの、ミスジャッジにクレームは後を絶たなかった。自分たちが有利になるミスジャッジは見逃し、不利になるミスジャッジのみを糾弾する。その姿勢に宗主国としての権威は既にない。対等に参加している選手団に過ぎない。
精神性と競技における公正さをどのようにとるか。これを機に柔道においてはビデオ判定導入の動きが生まれた。
ビデオ判定といえば、大相撲においては、とっくの昔に導入されている。伝統と格式を重んじる大相撲において、だ。
大相撲の場合、行司がジャッジメントを行うのだが、最終判断は土俵下の砂被りに座する審判団が取り仕切る。その判断にビデオを使うわけだから、行司の「差し違え」というミスジャッジも審判団そのものの権威失墜にはならない。しかも、その裁定の中には、土俵を割るのが先でも「相撲の流れ」という価値判断と相殺して「同体取り直し」という“大岡裁き”のようなものも存在する。ファンは喜ぶし、合理性と精神性を共存させたシステムであると僕は思う。根本的には、“興行”という観念が根底にあるから成り立つシステムであるわけだけど…。
尤(もっと)も、この大相撲にしても国際化が進み、取組み後の暴力沙汰が問題になるほどの事態になってることも否めないけどね。まあ、これはジャッジと別の次元の話か。
サッカーやラグビーは、ジャッジの権限は絶対であると聞く。ロスタイムなんかも主審の裁量だったように記憶している。いつ、試合が終わるのか、主審に全権が委ねられてたわけだ。
曖昧極まりないし、公正さに欠く、と言ってしまえばそれまでだけど、根幹には「ノーサイド」の思想や試合後にユニフォームを交換する儀式に現れる精神性があるのかな、と思う。「騎士道」と言われるものなのかも知れない。今回のW杯主催国・ドイツが見せた潔さにも同様に感じるものがある。だから、勝負に拘(こだわ)り、判定を不服として審判に暴力を振るう北朝鮮の選手に妙な違和感を感じるのかもしれない。
余談ではあるが、実際、欧州の人間は、競技に対する精神性というものを重視するようだ。彼らは「欧米」という形で括(くく)られるのを嫌う。
興味深い話を聞いた。この6月にフランスで行われた世界マスターズ柔道大会でのセレモニーでの挨拶である。
「若い時にその競技の最高峰に立っても、その後の人生を誤る者はいくらでもいる。若い頃から研鑽(けんさん)を続け、高齢に至ってなお、最高峰を極めんとする姿勢こそが、“道を極める”姿勢である」
この挨拶をフランス人がしたという。出席していた日本の先生方は、「日本人以上に“道”という概念が、フランスでは根付いている」と大層感心されたそうだ。
実際、フランスでは日本の半分以下の人口なのに、テレビでは柔道のCMが流れ、柔道人口は日本より多いと聞く。20年前に既にパリの町道場の数は、大阪府下のそれよりも多かったらしい。フランス人は、「柔道はフランスの国技」と言って憚らない。彼の国には、それだけの土壌がある、と僕は思う。
さて、ここんところ、わが国のスポーツ界ではジャッジに関する物議が醸(かも)されている。件(くだん)のボクシング。これについては、触れない。ちょっと同じ次元で論じる問題じゃないと思う。
一方で、連日抗議文が提出される異常な事態となっているプロ野球界。
以前から、こんな哲学のないジャッジメントってないよなー、と思ってる。審判に絶対権限を持たすわけでもなく、公正さを維持するシステムの導入も行われない。
だから、選手も監督も平気で抗議し、金を払ってる観客不在の無為な時間が過ぎていくことも往々にしてある。1塁ベースを引っこ抜くみたいに抗議をパフォーマンスにして楽しませるくれるなら、それでもOKだろう。あれは、単なるジャッジだけでなく、観客を無視する審判団に対する抗議やったんかな、と思う。
ジャッジメントの権威なんて既に失墜してる。ならば、公正さを維持するためのシステムを取り入れることで、「審判団」としての権威を維持するシステムを検討すべきなのに、未だにビデオ判定すら取り入れられない。
なんとも不可解である。

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