よく「ボタンの掛け違え」っていうが、掛け違えただけなら違和感はあってもとまってる。中身を曝さんでええわけだ。
だけど、根本的に価値観や思考の根拠となる観点が違ったら・・・。
まあ、議論にもならんわな。議論するのも空しくなってくる。
黙ってるのが一番って思ってまうんやけど、ついつい黙ってられんときもある。
靖国の公式参拝問題でまたもや最高裁は憲法判断の避け、損害賠償請求についての上告を棄却した。これに対する意見をネット上で読む機会があった。
「今の我々は先人の犠牲の元に成り立っている。その御霊を弔うことがなぜ違憲なのか」
て主張があった。賛同する声も多々あった。
うん、異論はないよ。
だけど、信仰の自由を認めている憲法の下で「神道」という特定の宗教の下で埋葬されることは論点になっていない。無宗教な国民性だからいいというものではないわな。
あるいは、「戦犯」とともに埋葬されていること。つまり「殺した側」と「殺された側」が同じ墓に埋葬されとるわけだな。
戦犯については、靖国は、違法な裁判による冤罪であると主張している。だけど、靖国参拝を頑なに断行する首相は「罪を憎んで人を憎まず」と発言した。違法な裁判であるとは主張してないわけだ。そりゃそうだ。アンクル・サムに対して、彼がそんなこと言えるわけはないわな。
また、先の戦争は非戦闘員が大量虐殺された戦争でもある。以前、自分のブログかなんかで「国際法違反」じゃないかと書いた覚えあるけど、この非戦闘員――一番の犠牲者やと思うんですが、これらに対しては何の弔意もない。広島の原爆慰霊碑の「過ち」という言葉にすら敵意を持つ人間もいるのやね。
「今の憲法はアメリカからの押し付けだ。だから、改正する」
だけど、改正させて軍備持たせて同盟軍として使いたいのは、アメリカの意思じゃないの。改正も押し付けやんか。
身近にも色んな価値観がある。
ついつい黙ってしまう。
たとえば、梅田はバナナホール。異常な状態がまだ続いてる。
「バナナホールを守ろう」
なら金工面して買い戻せよ、てのが理屈だ。
「バナナを残すといったから売却した」てのも何か変な理屈だ。
色んな人の思い入れは分かる。僕だって少なからず思い入れはある。
だけど、潰れていった他の色んな店と何が違うんかな。
この場に便乗して、無料ライヴとかでがなってる連中は何を考えてるんんだろか?
あの忌まわしい事故で閉鎖を余儀なくされたバーボンハウスとは何か違うし、結局、潰れるのは一緒やん、とも思う。
バナナを買い取った側は「新しいライヴハウスを作る」と名言してる。
そこでも新たな思い出は生まれてくるんだろな。
拘ってるバナナホールって何なんやろか?
僕には分からん。
つい先日も他のバンドのトラブルを聞いた。
僕には、何でトラブルになるのか、分からんかった。
一所懸命、彼らの言い分を聞いた。
だけど、僕には彼らが糾弾している人間の行動の方が理解できた。
だからそれ以上は話をするのをやめた。
価値観なんてどうせ違う。
それは何とも思わない。
違って当たり前やけどね。
そんな議論はややこしいな。議論にならんもん。
そういうとき、僕は黙る。
だけどね、一方で、僕の中で本能的にある「リセット衝動」が首を擡げてくるんやな。
全てリセット!
なんて気持ちがいいだろう。仕事も、生活も、女も、友人も、一切の柵もね。

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