友人は少ないわけやない。
むしろ、多い方なんやろな、と思う。
なんでも典型的なO型人間らしい。
そりゃ、そうだ。親父もお袋もO型やから兄弟3人ともO型になるわな。
動物占いは虎やった。なんでも、頑張り屋さんらしい。
んなことは、どうでもええんやけど、昔から友人には事欠くこたなかったな。だけど、年齢・性別・国籍を問わずね。
いつもべったり一緒におるわけやないねんけどな〜。
大体、人に連絡を取るのがマメなほうやないし、年賀状なんて、もう何年も“喪中”状態になってもてる。
だけど、なんとなく、友達はおるんやな。
そんな友人の一人、沖縄在住のガニ“ひろまん”田中が、久しぶりに大阪に帰ってくる。

田中宏昌と出会ったのは、1980年頃やったと思う。20代の頭やな。
大阪キタのCharly Brownで彼はバーテンダーをやってたんやな。
その頃の店長が、今はミナミで「九Bar」や「Quixotic Bar」のオーナーの“Qさん”こと加賀谷一郎さん、それに元ボクサーで今はミナミでBar「Bootleg Tavern」をやってるティムさんもいたなぁ〜。
当時の僕は、自分では意識してなかったけど、店では厄介モンやったみたい。その店は、店内でナンパするなどもってのほかで、女の子のグループに声でもかけようもんなら、退出させられる方針やったらしいねんな。
だけど、僕は後からガニやQさんに聞くまでそんなこと知らずに、仲間連中や後輩連中が女の子引っ掛けに行っても「いってまえ〜」みたいな感じで呑んでた。店員も「あの連中には変なこと言って暴れられたら怖い」ってことやったらしい。
ある日、一人で店に入っていくとカウンターに案内された。
カウンターの中にいたのがガニ田中。
どうやらQさんが、「ガニに相手させとけ」ってことやったらしい。
何気なく話をしてると同じ街に棲んでて、しかも同い年であることが分かった。共通の友人の話も出てきた。僕の弟の嫁の兄貴が、ガニの音楽の先輩であることもわかった。
なんやかんやで意気投合した。
店がハネてから夜っぴいて飲み歩いた。
やがて、Qさんがミナミで「Quixotic Bar」を開き、ガニも豊中店を経て、道頓堀のバー「石の花」の雇われマスターになるのにあわせて、僕の足もキタからミナミへと移っていった。
ある日、明け方まで呑んで、ガニと一緒に僕ら住む街まで車で帰った。
僕の棲んでたアパートで、僕の弾くギターを聴いてガニは、
「アコースティックよりエレキ弾いてバンドやったらええねん」
と勧めた。
「絶対おもろいで」
というガニに「めんどくさいやん」と言った覚えがある。「一人のほうが気楽やで」と。
幾度か人のバンドと一緒にもやったし、自分でバンドもやったけど、それを維持するための人間関係に辟易してたからね。
その頃僕はたまにラウンジかなんかで下手なピアノを弾いて歌ってた。
気楽やったな。特に赤坂なんかでは、外人客が多かったから面白かった。
その後、ガニは「ガンボ」と「ハルビン」っていうバーを経営し始めた。
神戸の震災があった年やったな。1995年、ハルビンで飲んでるとガニが僕に「俺な〜、また結婚すんねん」と切り出した。
「WO'HOLでライヴやるから、俺のバンドで歌てえな」
久々に大きなステージでバンドをバックに歌った。
それで病み付きになった。なんせ、ガニのバンドやから気楽やった。
別のバンドにも入ったけど、しばらくするとミナミで「ロケーション」てバーをやってたもっちゃんとガニの嫁に「なんでもっと歌えへんのん」と凄い剣幕で怒られた。
それで、ガニのバンドに入ることになった。
ガニがテレキャスターを買ったので、それまで弾いてたゴールドトップのレスポールは、僕が今でも弾いてる。
石田長生さんとも共演した。
おもろなるな、と思った頃、ガニが沖縄に移住すると言い出した。
とどめる理由なんてなかった。
マーチンを買ってまた一人で歌い出した。
だんだん新しい仲間が増えてきた。
そして僕は「
LAZY HORSE」を作った。
僕がエレキを弾きたくってると、ガニはたまに帰阪して言うねんな。
「アコで一人でやんのんて気ぃ楽でええで」
昔、僕がガニに言うた理由と同じやから笑ってもた。
今、1年か2年に1度、ガニが大阪に帰ってくるのにあわせて、僕は彼の主催してたイベント「BLUES IN THE GUMBO」をプロモートしてる。
ある時はエレキで、ある時はアコースティックで。
最近、ガニはマーチンD-18を弾いてる。
いい感じやな。
もう彼との付き合いは四半世紀になる。
5月4日、姪っ子の結婚式でガニが帰阪するのにあわせて、アナザードリームを抑えた。
ガニと電話で打ち合わせたら、「エレキ貸してくれへんか?」と尋ねてきた。「俺のテレキャスター使えよ」僕は答えた。
久しぶりの「
BLUES IN THE GUMBO」やな。

4