テーマは「
大人のための催眠術」
こんなにきっちり限定されたジャンルなのに、書く人によってこうも味わいの違う物語ができてしまうのはナゼなんだろう? そんな疑問すらその時は持たずに、私は先を読み続けた。
「サイミンパンツ」……なんてふざけたタイトルなんだ。そう思った。最初にタイトルを見た時は。
クリックして物語ページを開いた途端、目にとびこんできたのは、「空間凝視精神集中法詳解」……それだけで私はヤられた、と思った。
その昔、某宗教団体でちょっとだけ修行したことのある知人から聞いた話や、瞑想法など、いろんなネタが頭の中を駆け巡り、しかし物語を読みだした途端、そのことを忘れていた。
――これだ、私が読みたかったのは!
初めて催眠をかける興奮、不安、罪悪感、そして支配欲。
次に「ラブトランス」を読んだ。
打って変わって大人の男女が主人公のシビアな物語。しかも、二人の行き違いやストーリー展開が、単なる感情のもつれではなく、彼らの置かれた状況とリンクしている点など、実にリアルな話でもある。
かかっているのかかかっていないのか曖昧なことも少なくない催眠という現象を、かかる側のことばによってこれほどまでに見事に表現した作品を、私はそれまで見たことがなかった。
「うわぁっ、ヤられた!」
まだ一本も催眠小説を書く前に、私はそう思い知らされた。
――ああ、そうなのだ。
私はこの人の作品に、がつんとヤられたのだ。
正直に告白しよう。
拙作「秘密の箱」は、てんさんの「サイミンパンツ」と「ラブトランス」なしには生まれ得なかった。私の原点はここにある、といってもいい。
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☆てん氏の作品
■大人のための催眠術
・サイミンパンツ
・ラブトランス
■E=mc^2
・幻市
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いやはや、まったくもって、てんさんは実に正直な人である。
もちろん、小説はすべからくフィクションである。そして彼が書くお話は魅力的な嘘でいっぱいだ。正直というのはそういうことではない。
登場人物の感覚や意見に耳をすませることに関して、非常に正直だという気がするのだ。
架空の物語において、当然登場人物が考えることも、語られるセリフも、すべては創作されたものである。
だが、物語には大きくわけて、二種類あるような気がする。
それは、配置された登場人物を作者が完全にコントロールし、意図した通りに感じ・考え・行動するように描かれるタイプの話と、逆に作者が最初に定めた世界に、やはりきちんと設定されたキャラクターを投げ入れ、後は登場人物が割と自由に演じる様を記録するタイプの物語である。
もちろん、そのどちらか一方ということはなくて、常に両方のバランスの中で物語は進行していく。ただ、どちらによりウエイトが置かれているかは、作者の性質や、物語の種類によって微妙に異なると思う。
てんさんの作品は、どちらかといえば、圧倒的に後者のような気がする。おおまかな筋書きは当然作者の頭の中にあっただろうし、登場人物たちがその筋書き通りに行動するようコントロールはしているだろう。
だがその結果現われてくる文章やどのような結末を迎えるかは、半分は不可抗力でそうならざるを得なかったといっていいんじゃないだろうか。
てんさんの作品は、ハッピーエンドとは言い難い結末を迎える。
だがそれは、作者の意図というより、物語がハッピーエンドを拒否した結果だと思うのだ。
ちなみに「サイミンパンツ」は、大きく二部構成になっていると思う。
ネタばらしになるので詳しくは書かないが、第3章までの「姉貴編」と、その後の「ダース・べーダー編」で、この二つはかなり趣が異なる。
もちろん主人公の性格やストーリーの展開は一貫しているし、簡潔で読みやすい文体にもズレはない。等身大の主人公の魅力はいっさい削がれていないばかりか、野望が大きくなったためにストレスも同時に増えていったり、催眠のスキルアップと大胆さが増していく点など、共感と整合性を崩さぬよう注意深く綴られている。
しかしそれでも、肥大した野望に見合った結末を、てんさんは捩じ曲げようとはしなかった。
それは実は、第二部とでも呼ぶべき「ダース・べーダー編」を突き進めた先に待つ、物語的必然だったのだろうと私は思う。恐らく、主人公の利彦には、何度か方向転換をするチャンスがあった筈だ。だが「サイミンパンツ」という物語が、それを許さなかっただろうと思う。
なぜなら、「ダース・べーダー編」がまさしく「姉貴編」の結論を受けて必然的に生まれたものだからだ。
利彦は、彼の思いにそぐわない力(技術)を持ってしまったが故に、己の欲望と自ら対峙せざるを得なくなってしまった。その結果、本当に欲しいものは手に入れてはいけないという枷を背負ったのだ。
この葛藤こそが、逆に「ダース・べーダー編」の利彦の大きなモチベーションになっていると私は思う。
もちろん、てんさんはそんな野暮なことをことばで説明したりはしない。ただ、エスカレーションする欲望と行動を、さまざまなアイデアでもって描き続けるだけだ。
しかし、彼が正直な人だからこそ、物語は作者の願望ではなく主人公の行動の結果を積み重ねることで進み、必然的な結末を迎える。
このことは次の作品「ラブトランス」で一層顕著になる。
私は基本的にハッピーエンドが好きだ。だから、自分の作品では絶対にハッピーエンドを目指そうと思っている。
だが、「ラブトランス」の結末を、私は否定できない。
もちろん、「私だったらこうする」とか「ここでこうしていれば」などと後からいうことはいくらでもできる。しかし、てんさんは、いや「ラブトランス」という物語はそのような楽天的な方向転換を許さなかった。
主人公二人の判断の甘さ、コミュニケーションの在り方を馬鹿にすることは私にはできない。彼らの置かれている状況や生い立ちなど、その全てが物語の方向を決定づけていることが、さりげなく置かれた描写のあちらこちらに描かれている。
職業の選定からそれぞれの性格まで、なんてツボをつく設定なんだろう。
心理描写の中で彼らの状況を描き、Hシーンで彼らの哀しい関係について語る。エロスと、その背景。人と、その運命。
これはもう、てんさんが確信的に綴った物語だとしかいいようがない。
すべきコントロールは必要にして充分、コントロールしない方がいい部分はきっちり物語にまかせ、来るべき結末を静かに受け入れている。
もちろん、エンターテイメントであるための要素はきちんと満たしながら、てんさんは思考実験として若くて貧しい二人に「催眠」を与えたのだ。
そしてその結果がどのように推移するか、描いたのだと思う。
てんさんの思考実験――あるいは葛藤――は、さらに「幻市」で明確になる。
某スレで、主人公と同じ名前のペンネームについてあれこれいわれているが、どこか逃げの用意されている私の名前はともかく、てんさんのそれは筋金入りの自己との対峙を表したものだ。
てんかん様の発作と多重人格、それを自らに課して描くほど、てんさんの“自己”に対する懐疑は強い。そして、あえて最初から多重人格ということばを使うことを避け、HDの喩えを交えて語られる複数人格の感覚は、容易に共感できる平易な描写によって、ますますリアリティを持って迫ってくる。
それが二重人格であると“定義”するのは、物語が進んだ後のことである。そして、その時になって初めて、彼らはそれぞれの名前を与えられる。この辺の筆運びも実に見事だ。
――てんさんがどこまで、物語に描かれたような感覚を体験しているのかはこの際問題ではない。
誰でも多かれ少なかれ、個別の悩みやトラウマ、あるいは違和感を抱えているものだし、作者が日常生活を送る上で障害となっているかどうかは、――当事者には非常に大きな問題だが――作品上ではどちらでもいいからだ。
問題はそれをどう扱っているかだ。
私は以前、EGOの雑記帳で「思春期の崩れたホルモンバランス」についてちょっとだけ触れた。しかし、未だに「幻市」には遠く及ばない。
物語はすべてフィクションだが、それは作者の現実からしかスタートしない。どれだけ荒唐無稽な物語であっても、現実には起こりえないことであっても、その種はすべて作者の意識の内側と、彼が置かれた環境に転がっている。
「幻市」が素晴らしいのは、そういったモロモロと作者自らが格闘しているというそのことである。そして、その格闘を通じて浮かび上がる自分自身のダークサイドを受けとめ、物語を通じて統合しようとする試みが随所に見られる点だと思う。
もちろんここでも、エンターテイメントとしての物語性やそれを面白く見せるための仕掛けが幾重にも施され(主人公の片割れの名が“てん”であることもそのひとつとして機能している)、読ませる工夫が随所にちりばめられている。
だからこそ読者は、《てん》の解放を願うのだ。恐らく作者がそうであるように。そして、《シンイチ》の幸福をも願うのだ。恐らく作者がそうであるように――。
それが感性によるものなのか、それとも後天的な学習の成果なのかはわからない。実際に感じているのか、知識として知っているのかも定かではない。しかし、てんさんは間違いなく、ある“感覚”について理解・把握していると思う。
それはとてもひとことでは言い表すことのできない何かだ。だから、物語の形で語るしか、伝えようがないのだと思う。
てんさんは、この文章を読むでしょうか?
今まで、きちんとした感想を書かずにいたことを謝ります。
そして、もしまだ少しでもその気があるなら、新しいお話を書いてくれるようお願いします。
今現在(2004.09.06)、てんさんの次に私の名前が並んでいることを名誉に思っています。
そして、てんさんの次の話を強く待ち望んでいます。

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