今回はまたグっとオタクな、フォントのレンダリング、つまりクリアタイプ、アンチエイリアシングについての話題。
興味のない方はご容赦。
現在私の使ってるメインのパソコンはMac OS Xで、フォントにはすべからくアンチエイリアスがかかっている。厳密には「滑らかな文字を使用しない」フォントサイズが4以下になっているので、それより大きなサイズのフォントはすべてアンチエイリアシング(フォントスムージング)処理が施される。
アンチエイリアスがどのような機能で、フォントの見た目がどうなるかはご存知の方も多いと思うのでここでは割愛する。
ただ、WEBの見栄えに大きく関係することなので、その辺について調べてみた。
その結果、人によってこの効果を好きな人もいれば嫌いな人もいること、可読性と書体本来のデザインのどちらを重視するかによって一長一短あることなどがわかった。またその好き嫌いが生まれる理由についての様々な考察についても読むことができた。
思えば私自身、長いことアンチエイリアスのかからない状態で文字を打ってきた。
Mac OSでは、確か8.5あたりからOSそれ自体にアンチエイリアスの機能を搭載したが、当時は鬱陶しいので効果が有効となるサイズをかなり高めに設定していた。結果として、OS上の機能としてはほとんどスムージングのほどこされていないビットマップフォントを見ていたことになる。
(それとは別にATM=Adobe Type Managerを使用していて、主にグラフィック関連のアプリケーションではそちらの設定が優先されるため、特に問題はなかった)
そんなわけで、OS Xへ移行したばかりの頃は、フォント表示に関して違和感があった。
それに、アンチエイリアスのかかった文字は、サイズが小さいとどうしても滲んで見えるし、潰れてしまう。
結局それまでテキストエディタなどで使っていたフォントサイズが9〜10ptだったのを13ptに上げた。(デスクトップその他の表示は11pt)
このことで可読性も高まり、その後はすぐに気にならなくなった。
OS Xに移行する前にディスプレイを液晶の22inchワイドに変えてあったので、文字サイズを大きくしたことによる情報量の減少もそれほど問題にはならなかった。
そして何時の頃からか、たまにOS 9を起動すると、逆にビットマップな文字表示に微妙な違和感を覚えるようになった。
──そして私は、ディスプレイの位置を以前より机の奥の方へずらした。
というわけで、フォントのアンチエイリアシング(及びその可読性)には様々な要素が絡んでいる。
アンチエイリアシングを使用していなかった頃の私は、CRT(ブラウン管のモニタ)を使用し、9〜10pt程度の文字サイズを基本として使っていた。
モニタぎりぎりまで顔を近づけることもよくあった。
5年くらい前から老眼鏡を使うようになり、できるだけモニタとの距離をとるようにしているが、それでも小さな文字は見えづらかった。
逆に見えづらいのがアタリマエとなり、文字の潰れはいつの間にか当然のこととなった。
そしてその当時から、大きな文字の場合はアンチエイリアシング処理がされていないと、ギザが目立って目に痛いと感じていた。
現在の私にとって一番目に優しいのは、「13pt以上のアンチエイリアスのかかったフォントを、適宜な距離をとった液晶画面で見ること」と言える。
もちろんこれが万人に共通する事実というわけではないし、主観も入っている。
そういえば雑誌のデザインでも、その雑誌の対象年齢や購買層、扱う内容によって、文字サイズを使い分ける。
ギッシリと小さな文字がつまったデザインは若者には向いているけれど、中高年向きではないし、文芸誌でもあり得ない。
小さな子どもが見ることを前提とした絵本では、限られた量の大きな文字が見やすく配置されていることが大事だ。
逆に新しい電子機器やガジェットを紹介するような雑誌なら、とにかく細かなスペックができるだけたくさん掲載されていることが重要だ。読む人はその情報量の多さを求めている。
同じように、フォントのスムージングもまた、年齢、性別、使用目的によって、評価が分かれるのが当然なのだろう。
可読性と一言にいっても、パソコンの使用環境はそれぞれのマシン、それぞれのOS、それぞれの使用目的によってかなり異なる。
今やパソコンは単なる仕事の道具ではなく、ゲームマシンであり、通信機器であり、画像や動画のビューワーであり、メディアであり、パーソナルな自己の情報やイメージを外部とやりとりするためのインターフェースでもある。
さらにはネットブックやスマートフォン、iPhone/iPadなどの新しいガジェットが登場し高機能化していく中で、その環境に応じて「可読性」の意味と質が変化していくような気がする。
余談だが、多くの作業がWEBに移行しクロスプラットフォームが実現されつつある中で、OSの意味は消え去ると考えられていた。だが、事実は少し違ったようだ。
もちろんOSやブラウザには、道具としての使い勝手や安定性が求められる。
だがそれだけでなく、インターフェースそれ自体がある種のエンターテイメント性を帯びている。あるいはそれが求められている気がする。
かつてパソコン(あるいはマイコン)は限られた人びとのホビーだったが、いつの間にかそれが仕事の道具となった。
今度はそれが、より多数の、特に機械に親和性を感じない人びとのホビーとなった。
少なくともそうした人びとにとって、作業効率よりはユーザー・イクスペリエンスの方が大事に違いない。
私は以前、印刷物とのWYSIWYG : What You See Is What You Getを実現するために、モニタの解像度を可能な限り紙と同じになるようにしていた。だが、自身の加齢とOSの進化、そしてパソコンそれ自体の描画エンジンの高性能化などの理由から、今ではそれも完全に崩れてしまっている。
同じように、フォントのアンチエイリアシングについても、時代とともに好みや評価が変化してきた。もちろんその背景には、技術的な革新とソフトウェア、ハードウェアの進化が切っても切り離せない。
繰り返しになるが、今私は、可読性を含めて13ptのアンチエイリアスのかかった文字を美しいと思う。
もちろんこれは、私のパーソナルな意見にすぎないし、正解がある話でもない。
ただ、EGO[イーゴ]の物語ページは、作品にあわせてフォントを指定していたりするので、できればそれを再現可能な環境で見てもらいたいという気持ちがある。
もちろん、トゥルーカラー(24bit、約1670万色表示)に満たないPCや携帯からの閲覧を切り捨てるつもりはないし、小さなディスプレイでは厳しいこともよくわかっている。
Windowsには標準で明朝系の和文クリアタイプフォントがないことも、残念ではあるがそれを言い訳にするつもりはない。
(後から気づいてMS Officeについてくる『HGS明朝B』と『HGS明朝E』を追加指定してみましたw)
ただ、まだの人は、ぜひ一度Windows版の
Safari 5(出たばかりのせいでAppleのサイトなのに一部Safari 4と表示されてますがw)を試してみて欲しい。
I.E.やFirefoxと比べて劣る部分もあると思うので、メインブラウザとして使用するかどうかはともかく、フォントの表示に関しては優れているようだ。
※Win2000は対象外なので私は試してませんが、そのためにわざわざレンダリングエンジンまで移植したとのこと。
但し、もともとクリアタイプが嫌いな人にはおすすめしません。
少なくともEGO[イーゴ]は「長文テキストを読む」サイト(爆)だし、フォントの選択も表現のひとつとして考えている。
もちろん、それが上手くいってるかどうかはわからないし、クリアタイプが全ての人に好まれるわけではないこともわかってはいる。
でも、私にとってフォントの選択それ自体が楽しみのひとつなのだ。
もしかしてこれはただ単に、自分がタイポマニアであることをカミングアウトしているだけなんだろうか。

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