少女が大人になったのはいつなのか?
それは永遠の謎だ。
では自分はいつ大人になったのか?
いや、果たして自分は大人といえるのだろうか?
それすら明確に答えられない自分がいる。
夏休みの最後に、初めてといえるデートで彼女と映画を見た。映画が終了した後、幼い二人には何のプランもなかった。
何をどうしたらいいかもわからず、何処へ行くアテもなく、ただ歩き始めた。
うだるように暑い日だった。
溶けかかったアスファルトの上を、しだいに言葉少なくなっていく彼女と一緒に、延々と街を歩いた。時折、彼女の胸に視線を走らせながら……。
せいいっぱい背伸びして大人っぽい喫茶店に入り、アイスコーヒーを飲んだ。
どれくらい歩いたんだろうか?
結局、その後のプランは思いつかないまま、夕方前の一番暑い時間に別れた。私はそのまま家に帰り、恐らく彼女もそうしただろう。
――それはもう、はるか昔の話だ。だが、それ以来ずっと、頭の片隅に同じ気配を抱えながら私は生きている。
ふとした弾みにそれは大きく膨らみ、私の身体を「熱っぽい無力感」で包みこむ。
「幼馴染の終わり」は、そんな思春期のユウウツを思い出させてくれる作品だ。
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というわけで、ジジさん作「幼馴染の終わり」への感想(+紹介,論評)です。
(
E=mC^2http://rose.zero.ad.jp/~zab50690/)に収録
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「変わらないね」
このひとことで作品はスタートする。
つまりこれは、変化についての物語だ。
幼かった頃のイノセントな時代から激しく変化し、すでに自分自身の連続性の感じられなくなっている主人公が、幼馴染との関係性を通して描かれる。
変わらないように見える彼女の表情や失われた記憶についての描写が、モノクロームのスチル写真に閉じこめられた無垢な時代への郷愁となって、甘い感傷を呼び起こす。
しかし、変化は彼一人にとどまらない。
少女は大人になる。
しかし、その変化を、いつ誰がどのようにして起こすのか、私たちは知ることができない。
自分に何が起きているのかもわからない。
まるで、荒れ狂う台風の中に、気がついたら放り出されていたように。
この世界は秘密の仕掛けをもっている。
私たちの肉体も、秘密のプログラムを持っている。
今夜も世界中の高校で、あるいは思春期にあるすべての人たちの身体の内側で、秘密の儀式が行われている。
作者はそれを、マインドコントロールとして描く。
荒れ狂う思春期のホルモンバランスが再構築されるまで、そのマインドコントロールは終わらない。
――いや、再構築が完了したと思えた後も、激しく乱れ格闘した精神と肉体には、傷つき欠損した部分が残る。まるでバグのように、あるいは古いコード体系のように、それは無視できないシステムの一部となって存在し続ける。
この世界と身体の中で起こる乱暴な出来事について、この作者は知っている。
成長や変化の代償として、失うものがあるということを知っている。
そのうだるような熱と、郷愁に似た悲しみや喪失感を、ジジさんは知っている。
そして恐らくそれが消えずに残ることも――。
物語の中で描かれる「思春期のユウウツ」は、甘く苦く、私の中の切ない記憶をフラッシュバックさせる。
そして、恐らくそれ以上にたくさんある思い出せない過去が、もう一人の自分となって、マインドコントロールされた哀しい目で私を見つめる。
激しい興奮が時に淋しいのと逆に、熱いユウウツが忘れていた私の輪郭を思い起こさせることもある。
甘いは苦い。苦いは甘い。
ジジさん、ごちそうさま〜
失うことが哀しいわけじゃない。
その失ったものが何なのか、それがわからないことが哀しいのだ。
このドキドキや、淋しさを、ぜひ忘れないで書き続けて欲しい。

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