多分、依然として続く放射能の影響や、地球規模に広がっていくことを気にする感覚は、多くの人の頭の片隅にあるはずだ。しかし、個人がそのすべてを把握できるわけでもなく、ましてそれが仕事でもなければ趣味でもない場合、ちっぽけな個人が恒常的に意識し続けることにあまり意味はない。いや、逆にかえって生活そのものを不安にするだけで、対処すべき冴えたやり方があるわけでもない。
何かのニュースで、経産省前を占拠している脱原発テントについて見聞きしたところで、それが自分の生活や人生と交わる人ばかりでないこともよくわかる。
瓦礫の受け入れにしたところで、それがどの程度放射性物質を含んでいて、どのように管理されるのか、心配な人もさしたる心配を感じない人も、個人でどうにかなる問題ではない。それはしかるべき部署のしかるべき人がしかるべき対処をしてくれるべきだ、いや、そうしてくれるだろうという期待を含め、それ以上、考えても仕方のない問題として、他の様々な雑多な情報と共に、脳の片隅へ格納されていく。
何かを考えるのは、実はとても面倒くさいことだ。
ましてそれが、「答の出ない問い」である場合、考えることそれ自体に、意味を見いだせないばかりか、気にするだけで徒労であると思えても仕方ない。
昨年の3.11以前から、スクラップ・アンド・ビルドが繰り返されてきたこの星は、瓦礫に満ちていた。
きちんとメンテナンスがなされ、綺麗に化粧の施された町にも、まるで多重露光された写真のように、荒廃した瓦礫のイメージが映し出されていた。
少なくとも、「街」を愛する私の目には、そのように映っていた。
だが今や、世界はその本来的な「瓦礫の風景」を露にして、ハッキリとした形で幻影を実現化させている。
SF作品やジャパニメーションで度々描かれてきた「荒廃した二重写しの世界」が、まさにダブって存在している。
経産省の前を占拠する3つのテントは、インテリジェントなビルが立ち並ぶ霞ヶ関の官庁街に、まるで空間のひずみによってそこだけ「被災地」がテレポートしてきてしまったようだ。
あのテントは、間違いなく福島そのものであり、時空を超えて福島と繋がっている。
そして私は、暖房の効いた自宅の部屋でパソコンのキーボードを打ちながら、書きかけの物語の世界とこの部屋、放射能に汚染された街に住んでいるというフィクションみたいな現実と、そんなこととは無関係なもうひとつの物語を行ったり来たりしている。
現実がフィクションを追い越してしまったように感じていたということ自体、すでに私は想像力を失っていたのだと言わざるをえない。
それは依存症者の弁に似て、「いつかそうなるかもしれないが、それは今日ではない」という毎日の果てについに本当にその日がきて、それは今でも継続中だ。
どれだけビルドされようと、それは最初からスクラップとなる運命を背負っている。──そのことを、心底痛感させられた上で、私は何をどう書けばいいだろう?
「3.11で私の人生は変った」と以前書いた。気がつくのが遅いにもほどがあるが、実は変わったのは私一人ではなかった。ほとんどすべての日本人の日常は、あたかも何の変化もなかったように感じている人も含めて、ほぼ全員が変ったのだと、今はそう思う。
以前の自分、これまで通りの生活を送っている人も少なくないだろう。しかし、それでも変ったのだと、そう感じずにはいられない。
少なくとも、ネットの、特に私が以前行きつけだったサイトに目立った変化はない。
それでも、私はそこになにがしかの「必死さ」と「しらけたムード」を感じる。
もしかしたらそれは、私が勝手に一人でそう感じているだけかもしれないが、しかしあるいは本当にそうなんじゃないかとも思う。
今まで通りのスタイル、今まで通りの日常──。
それはただ、そのような毎日があるだけで、ある意味、そのように表現されているだけなのではないだろうか?
街は、どれだけにぎわっていようと、人が行き交っていようと、そこかしこに「瓦礫の風景」を隠している。
街が「人の作り出したもの」である以上、そこに「フィクション」が混じってしまうのは、ある意味宿命的なことなのかもしれない。そして現実は、やがてスクラップと化す瓦礫が横たわっているにすぎないのかもしれない。
そのことを、まさにフィクションが描き続けてきた。
「王様の耳はロバの耳」。そう、大声で叫び続けてきた。
真実の暴露──。それは必ずしも心地よいものではない。
しかし、フィクションならば許容される。
カリカチュアされたキャラクターや設定ならば、フィクションであるが故に楽しむことができる。
お金になる仕事と、お金にならない仕事、そのいくつかに追われて、いくつかを片づけ、私はまたフィクションの世界に戻ろうと思う。
フィクションが現実になってしまった世界で、それがフィクションではないことを証明するには、さらなるフィクションが必要だ。
荒唐無稽な物語を描きたい。
絶対に現実には起き得ない、でたらめな話を書きたい。

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