日本はこれだけ近代的で大都市や情報網が発達しながらも、四季を持ち、素晴らしい自然がたっぷりと残っている国だ。
世界遺産や天然記念物もたっぷりあり、大地震と津波の被害のツメ跡はしばらく残るだろうが、その美しさのすべてが失われたわけでは決してない。
人は人の優しさと醜さと、強さと弱さ、はかなさとしぶとさのすべてを経験していて、たっぷりとトラウマを抱えながらも、今後も生き延びていく。
今まさに必要なのは適切な支援だけれど、そのための活動も徐々に本各化しはじめ、まだまだ足りないのは言うまでもないが、今後ますますその輪が広がっていくだろう。
人は憤ったり、我を忘れたり、呆然としたり、挫けたり、涙も枯れ果てたり、心を熱くしたり、心底応援したりしながら、なんとか今日も生き延び、明日に命を続けようとしている。
あるいは何とか生活を建て直し、生産を再開し、日常を取り戻すための、賢明な努力も続いている。
今日は仕事で四谷に行った。
閉まっている店もあったし、落ちかけた外壁や看板の修理や強化のための工事のためのシートが張られているビルも見かけられたが、快晴で強風の中、車はひっきりなしに走り、街はほとんどいつもと変わらない。
この世界は何も変わっていないように見えた。
日本の美しさは、なにひとつ削がれていないように見えた。
ドイツ気象庁の放射能放出予測
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これはシミュレーションだが、完全に事実に即したものであっても、日本はこれまで通り美しい国で在り続けるだろう。
ただ、それでも世界は変わった。
たくさんの亡くなった方々、被災した人たち、懸命に努力されている人びと、「せめて自分ができることを」と、募金やボランティア、様々な形で協力されている人たちはもちろんのこと、なんとか自分の生を守ろうと買い溜めしたり、恐怖から遠方へ離れる人たち、被災地にいる孫や子のために物資を蓄える人たち、情報を探る人びと、「責任」の所在を探す人たち、毒づく人びと、諦めて自暴自棄になる人たち、「日本終わった」と嘆く人たち……。
そのすべてが、私にはどれも、何も間違っていないというか、どれも自分自身の映し身であると感じる。
私は怒っている。
私は嘆いている。
私は怖がっている。
私は喜んでいる。
私は焦っている。
私は不安だ。
被害者にはなりたくない。
加害者にもなりたくない。
許容レベルというものが、どの程度信用に値するものなのかは、このあと1年、30年、40年たたないとわからない。
空気や水や食品に含まれる放射性物質が、自然状態で浴びる放射線の何倍、あるいは何分の一、といわれても、その「自然状態で浴びる放射線量」に加算されていくわけだから、効果は未知数だ。(ヒロシマ、ナガサキ、ネバダ、ビキニ岩礁、スリーマイル、チェルノブィリで、ある程度のことはわかっているとしても)
私はヒバクしたくない。
しかし、同時に、どうせヒバクするなら、きちんとヒバクしたいとすら思う。
そして、そのことをきっちり認識したいと思っている。
少なくとも私はすでに、ヒバクシャなのだ。
もちろん、程度の差が大き過ぎて、被爆の影響で病気に苦しんでいる人たちと同じだなどというつもりはない。
それでも、今、そしてこれから、日本人の多くが、次々とヒバクしていくことだけは間違いない。
原発はこれまで何度も、ギリギリの大きな事故を起こしてきたし、今後も大事故がおきることは私には想像できていた。
しかしそれが、ここまでの大惨事になるとは、考えられなかった。
3.11まで、それはリアリティのあるフィクションだったが、今はリアリティのない現実となった。
たぶん、もう少しすれば桜が花をつけ、今年も美しい風景が見られるだろう。
日本が美しい自然と、そこそこ優しい人びとが暮らす国であることはこれからも変わらない。
ただ、多くの国民がヒバクしたという変化は、まぎれもない事実だ。
それがはっきりと自覚されれば、さらに大きな変化をもたらすと思う。
放射線量は多いが、美しい自然と、本当に優しい人びとが助け合って暮らす国がやってくることを私は希望をもって望んでいる。

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