20代の半ばにフリーになって以来、ずっと個人事業主として暮らしてきたわけだけど、バブル崩壊以来、経済は悪化の一途を辿ってきた。
もちろん浮き沈みはあって、時に大きな仕事が入ることもあるけれど、ならせば売り上げは徐々に落ち込み続けている。
そして、かれこれ10年以上、綱渡りのような生活を続けている。
定期の仕事も今はほとんどなくなり、毎月毎月、今月はどうやって家賃を払おうかと考えながら暮らしてきた。
借金して暮らし、その借金を埋めながら繰らす。
元々、金勘定は極度の苦手なのだけれど、今では来月の予定をたてるのも、四苦八苦だ。
昨年の夏、それまで住んでいたアパートが老朽化のため建て壊しになり、今住んでいるマンションに越した。
家賃はそれまでのプラス1万7千円、厳しいことはわかっていたが、仕事上、立地の便と最低限の広さを考えると、それでも破格の金額だった。
っていうか、それまで住んでいた金額で同程度のアパートはすでに存在しなかった。
引越し後、なんとか経済を安定させるために、市が斡旋する中小・零細向けの緊急融資に申し込み、そのための手続きを始めた。
役所や金融機関に何度か足を運びながら、その日の支払いのための金策をし、同時に仕事をしているうちに、とうとう限界がきて精神科を受診した。
以前も書いたかもしれないが、私にとって精神科の受診は、かなりのエポックな出来事だ。
今でも、仮病のような気がする。
未だに、嘘をついているような後ろめたさがある。
それでも、私には「うつ病」であるという認識が必要なのだと思うし、まじないのように毎日一錠トレドミンを飲むことが、私をちっぽけで無力な自分自身を取り戻すことに役立っていると思う。
そう。それは悪くない。
ただ、昨年秋のうつ病騒ぎで、いくつか仕事も断ったし、多少調子がよくなったからといって、すぐに新しい仕事が舞い込んでくるわけではない。
力強く営業努力をするエネルギーは、今の私にはない。
それ以前に、毎月の支払いをどうするかにばかり意識を奪われて、不安と疲労は決してなくならない。
逃避欲求や投げやりな気分をなんとかなだめて、「ここ」に居続けることで、正直、精一杯な気分だ。
でも、悪いニュースばかりではない。
今年の5月に、何度かチャレンジしていた市営住宅への入居に当選し、特に問題がなければ9月には転居することになった。
今の家賃の3分の1以下、しかも部屋数はひとつ減るものの、面積は今より増える。(収納が多いのはありがたい)
ああ、これで随分、楽になる筈だった。
ただ、それまでの数ヵ月、どうにもこうにも支払いが辛い。
もう借金するわけにもいかない。
──なんとか9月までを凌ぐ方法はないものか。
そう考えて、市役所に生活相談に行った。
現状を伝え、少しの支援を頼むつもりだった。
ただ、そこで紹介された社会福祉協議会によるサポートは、給与所得者、つまりどこかの企業に勤めていたが失業したような人向けのものばかりで、私のように個人事業主向けの資金援助はないことがわかった。
私はこれまでも何度か、友人のことでも自分自身のことでも、行政の支援窓口に相談に行ったことがあったので、激しく落胆はしなかった。
必ずしも援助が受けられるとは限らないことも、体験してわかっていた。
でも、せめて市の相談窓口に、社福では無理だったことを伝えようと、翌日再び市役所へ出かけた。
そして、担当の方から、「じゃあ生活保護の申請をしますか?」と言われた。
すでに前日に、我家の経済状況、仕事の状況、どのような援助を受けたいかについては伝えてあった。
その上で、担当の人から提案されたのである。
しかも、その後、書類を揃えては役所に足を運ぶということを何度か繰り返しはしたが、申請とほぼ同時に保護が認可された。
時代は変わったなと思う。
私の状況も変わったが、社会の状況も変わった。
もちろん、今住んでいる市が、税収の多い地域であるというのも幸いしているし、私がうつ病で通院しているということも、このケースにおいてはプラスに働いたかもしれない。
繰り返し(しつこく)、市役所に足を運んで「門を叩いた」のもよかったように思うし、私にまったく収入がないわけでもなく、また働く意欲がないわけでもないことも、あるいはプラス材料だったかもしれない。
そうであっても、私はラッキーであるように思う。
この社会から見捨てられていないし、少なくとも、援助を求めるエネルギーは残っていた。
そういうわけで、私は生活保護を受けることになった。
念のため付け加えると、生活保護は「仕事しないで保護で暮らすか、それとも受けずに頑張るか」という二者択一の制度ではない。
保護を受けても、収入があった月は当然その分を差し引いて支給されるし、支給額を上回って収入があれば、その月は支給されない。
(最低限度の生活に)足りない分を補う、という制度である。
もちろん、一切働けない、働き口が見つからない人の場合は、保護費だけで生活することになるが、当然生活上の制約もある。
遅まきながら、私がぼんやりと望んでいたベーシックインカム制度は、実は生活保護によって(制度的には違ったものではあるかもしれないが)すでに実現されていることに気づいた。
また同時に、私はこれまでワーキングプアとして、長いこと生活保護基準に満たない生活を続けてきたのだという事実を、受け容れざるを得ない状況になった。
私がワーキングプアの自覚をしたのもここ数年のことだし、それが生活保護の対象になるということについては一切思い至りもしなかった。
社会問題としての貧困にはあんなに関心を持っていたし、「ソーシャルサービス」は多くの人が申請したり関心を持つことでサービスの質を向上させていくべきだという考えすら持っていたというのに!
バカか、私は!
これが自分自身でなく、誰か別の人のことだったら、私は躊躇うことなくその人に伝える。
──最低限の人間らしい暮らしを送るために、保護を受けることは当然の権利だ、と。
だが、自分のこととなるとからきし自信がない。
それは、保護が決定した今もまだ、いや今はさらに疑ってしまう。
私は何か、ズル臭いことをしているんじゃないだろうか?
本当は、もっと頑張るべきなんじゃないだろうか?
特にこのご時世だ。保護を受けることを恥ずべき理由はない。
まあ、商売や金勘定が得意じゃないことは、自慢にはならないとしても、食うや食わずの生活をしている「下流」のくりえいたー(笑)は、私だけではない筈だ。
でも、他の誰かではなく自分自身が保護を受ける立場になることは、「うつ病」であるということと同じで、どこか決定的に後ろめたい。
本当は、ただ怠けてるだけなんじゃ?
それが、ドミナントな言説を構成して、弱者を虐げる発想であることは理解した上で、そのドミナントは私自身の内側にもしっかり巣くっている。
そして、その「囁き」が、私自身を虐げて、私のエネルギーを奪っていく。
ああ、そうなのだ。
私はもう少しだけ稼ぐようになりたい。
大金持ちになるのは無理だとしても、そこそこ利益をあげて、税金を払って、私を助けてくれる行政にお返ししたい。
そうケースワーカーに伝えると、「そういって頂けると、支援する甲斐もあります。だけど、焦らないで。まずは生活を建て直して、病気を治して、それがまず一番大事なことです」と、泣きたくなるようなことを言ってもらえた。
彼のその言葉が経験からくるものだとしても、あるいはマニュアル的なものだとしても、どちらでもかまわない。
私はその言葉に込められた「意味と価値」に深く頭を下げるしかない。
猿ではない人は、そのように何かを守るためのシステムを構築することができる。
猿もまた共同体を作るが、そこにシステムとしてのサポート体制を構築することができるのは人間だけかもしれない。
誰かの意思や気分、優しさに頼るのではなく、変更はあるものの社会的な合意としてのサポートを制度として作り、基本的に誰がその立場になろうと、あるいは誰が担当になろうと同質のサービスが受けられる。
そこには、社会的に合意された「価値」がある。
そのことに私は助けられ、救われ、感謝と敬意を覚える。
長年のストレスフルな生活が祟って、多分私は相当に、疲れ果てていると感じる。
だけど、毎月の家賃や生活費に不安と恐怖を抱く生活が解消され、9月に引越しが終わりしばらくすれば、よりよく生きるためのモチベーションや、「世のため自分のため」のよいアイデアを実行へ移すためのプランを、少しずつ復活できる気もする。
それに来年は、父が他界した年齢に並ぶことになる。
よくも悪くも私のシステムに大きく食い込んでいる父が死んだ歳のその先は、私にとって真のニューワールド、なぞることのない未知の世界だ。
ひねくれた者であることは変わりそうにないが、それでも感謝を持って、自分にできる小さなことを、少しずつ還元していきたい。

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