4年前のほぼ同じ時期に、選挙が行われました。
『郵政民営化』に賛成か反対かを問うた選挙であり、その閉じた質問自体が作られた選挙だったように思います。
そして4年後の今日、今度は「政権交代」というストーリーを掲げた民主党が予想通り、いや予想以上の大勝利を収めて選挙は幕を閉じました。
民主が勝ったのではなく、自民が圧倒的な敗北を記したのだという人もいるだろうけれど、それも含めて私は一抹の不安を感じています。
4年前に自民が大勝した時にも書いたように、
今回民主党に票を投じた人も、共通する見解もありながら、それぞれ話を聞けば、微妙に異なる様々な意見が聞けるに違いないと思います。
「自民にNoをつきつけるため」という人もいるだろうし、「民主のマニフェストに期待して」という人もいるでしょう。「1回くらいやらしてみるのもいいんじゃないか」という意見もあるだろうし、「生活防衛を考えたら政権交代しかない」という人もいると思います。「何か新しいことを期待して」というのも立派な理由だと思うし、「二大政党制の方がよいシステムだ」という意見の人もいるでしょう。
私自身はEGOists'BBSに書いた通り「二大政党制」よりもむしろ、「穏健な多党制」が望ましいと思っているし、相互チェックや議論が尽くされること、マイノリティの意見が議論の俎上に上りやすいだろうことなどから、どの政党が与党になるとしても、与野党が拮抗している方が望ましいという気がしています。
人付き合いは楽しいし、ネットでもオフでも友人の有り難みは痛感している。
「袖すりあうも多生の縁」
※の言葉通り、人と人の縁はできるだけ大事にしたいと思う。
でも、私の中にはどこか対人恐怖が横たわっていて、自分自身も人類の一部であることは重々承知の上で、どこかヒトという種を信用ならないものと感じてしまいます。
まして、多数であることが権力を持つシステムに、(極端に言えば)私は恐怖を覚えるようです。
民主党のマニフェストは、私の耳に心地よいものをたっぷり含んでいます。
政権とったからには、きっちりやってもらいましょう、とも思います。
それと同時に、今回の圧勝ぶりに、私は少し不安になるのです。
確かに物語としてはわかりやすい。
古い権力を打ち倒し、別の勢力が中枢に座る。
そこで物語を終えることもできるでしょう。
でも、『政権交代』という物語が幕を閉じても、リアルな世界はダラダラと、その後も続いていくのです。
この世の中は、悪意と善意が絡み合い、意図と意図無きシステムとが交差して、私の脳ではとても推し量れない複雑さを持っているように感じます。
その一局面だけをとりだしても、『政権交代』というわかりやすい物語で整理できるとはとても思えない。
夜、選挙速報を見ていると、遠方に住む友人から急を要する重い内容の電話がかかってきました。
その話は彼女が背負う人生そのもので、とても一言で語ることのできる問題ではなく、また語るべきものでもありません。
私は自分にできる極ささやかな提案として、彼女が住む地域で行っている24時間受け付けの相談窓口に電話をかけて貰いました。しかし、それなりに社会福祉を謳う自治体であるにも関わらず、規則やできないことだらけ、たらい回し状態で大したサポートも得られず、結局(私ではない別の)友人の助けを借りることで、今夜を乗り切ることになりました。
ドキドキしながら何本か電話を受け、答え、役に立たないソーシャルサービスに苛々しながらも、同じように自分もまた役に立たないちっぽけな存在であることを思い、個人であるというのはそういうことだと痛感しました。
確かに、わかりやすいことは「伝える側、作る側」に求められる大事な要素のひとつだとは思います。
でも、わかりやすいことだけを扱うのではなく、ぜひ「わかりにくいこと」を大事にして欲しいし、私はその「わかりにくさ」を放棄したくないと思います。
……そう。多分私は、わかりやすいことが怖いのです。
そして、そのわかりやすい物語を選択する人びとの「数」に対しても。
個人であり続けること、それこそがマイノリティであると思います。
そしてやはり、マジョリティの側に身を置くことに、私はどうしても馴染めないのです。
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※「袖すりあうも多生の縁」
仏教の輪廻転生をベースにした言葉。
後から気になって調べたところ、「他生」とする方が一般的なようですが、「多生」でも間違いではなさそう。
意味もほとんど同じだけど、ちょっとばかりニュアンスが違う気がする。
「他生」では、他の生=前世・来世においてはかかわりがありますよ、と言うのに対し、「多生」だと輪廻転生においてどれだけ沢山めぐりあい、縁があるかわからない、という「生の繰り返し」が強く意識される感じがします。

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