恐らく物理の得意な人は物理の、数学の得意な人は数学の理論や方程式が、ちゃんと現実感を伴うイメージとして認知可能なのだろう。
ずいぶん前にNHKで観た『100年の難問はなぜ解けたのか 〜天才数学者 失踪の謎〜』という番組が賞を取り、そのダイジェストを再び放映していた。
「コンパクト3次元多様体は、幾何構造を持つ8つの部分多様体に分解される」という幾何化予想と、「単連結な3次元閉多様体は3次元球面
S^3に同相である」という「ポアンカレ予想」を同時に証明してみせた数学者=グレゴリー・ペレルマンを追ったドキュメンタリーである。
で、上の説明を聞いても、私には何のことかさっぱりわからない。
番組ではトポロジーや幾何化予想、ポアンカレ予想についても、極力わかりやすくCGも交えて説明され、何となくわかったような気にはなれる。
だが、じゃあ何がわかったかといえば、皆目見当はつかないし、ここで説明することも私の能力を遥かに超えている。
知識と理解は必ずしも一致しないし、知ることとそれを用いて考えることも同じではないと思うけれど、そのどのレベルにおいても、私にはイメージすることすら不可能だ。
ただひとつ、それをリアルな現実として認知できる人たちが存在するというそのことが、非常に興味深いし、愉快だ。
多分、E=MC^2という公式(今回はあのマインド・コントロールのサイトではありません、念のためw)も、それをリアルな感覚としてイメージできる人たちがいて、私には到達できない何かを彼らは知っているのだろうと思う。
実際にカーナビのシステムには相対性理論が役に立っているとしても、それがどのようにどう役立っているのか私は意識不可能だ。
もちろんそれはあらゆる技術、たとえばハードディスクの構造について知った風な気になっていても、HTMLについて他人に説明するとしても、私が何かわかっているわけではないということと同質だ。
同じように、私はにんじんの美味しい食べ方、調理法をいくらか知っているけれど、いつどのように種を撒き、どのように収穫するか、どのように市場に出すかは知らないわけで、これもまた何か知っている気になっているだけにすぎない、とも思う。
お話を書くために、グーグルやウィキであれこれ調べまわるほどに、この「知らない」ということ、「認知するための能力がない」ということが、気になってくる。
もちろん私が書こうとしているのは論文ではなくフィクションだ。何も理解している必要はなく、“構築”してしまえばそれでいい部分も多々ある。
ただ、どうしても、「論理の飛躍」が激しすぎる部分、少なくとも「フィクションだから」といういいわけが効かないほどに飛躍してしまう部分は何とかしたいと思う。
たとえば、ライターから突然水が噴き出すシーンを書いたら、何故そういうことが起きたのか、最低限の説明が必要だと私は思う。
それはたとえば、「ここは何でもありのミラクルゾーンなのだ」という説明でもかまわない。
それもまたひとつの定義でありルールだ。
ただ、それが不思議なことであればあるほど、日常生活からかけ離れていればいるほど、そこに何らかの「理(ことわり)」があった方が、安心して楽しめるように思う。
これもまた恐らく私の個人的なシュミの問題なのかもしれないけれど、何か不自然さが際立つとフィクションを楽しむよりもその違和感が気になってしまうことがタマにある。
せめて、自分自身が気になる「論理の飛躍」は潰したい。
しかし――。
それがどうにも潰せない。
アクロバティックな方法をいくつか試み、「そもそもフィクションだし、ここは論理を飛躍させるのだ!」とやろうとしているのだけれど、論理を飛躍させるためにはさせるだけの、メタな構造が必要であるように感じる。
現実と地続きの物語ではないのだから、現実を超えた方が面白いに決まっている。
それでも、妙なところで、自分自身の知識と理解、はたまた素養や認知能力の低さに泣けてくる。
球面上では「平行線が交る」ことは、イメージできる。
だが、幾何化予想に出てくるトポロジカル(w)な話になると、もう完全にお手上げだ。
いやいや、そんなレベルの話ではない。
仕事で、DNAのらせん構造図を作成した。
それなりに優秀な3Dソフトがあれば簡単だったのだろうけれど、普段そのテのソフトは使用していない。
手元にあるのは、ずいぶん昔に某ソフトのおまけについてきた3Dソフトで、単純な2D図を回転させたり、奥行きを持たせたりする程度の機能しかない。恐らく「ねじる」のは無理だろうと最初から
アテにせず、結局は使い慣れたIllustratorで作成した。
2本の向かいあうリボンの内側を二つの塩基がくっついて、さらにその2本のリボンがねじれている様子を描くのに、わざわざ長い紙を切り、ねじって様子を観察し、はたまた単純な直方体をCGで作成して、少しずつ回転させたものを繋げあわせ、ようやく「見た目」を描いた。
現実に構造として観ることのできるものですら、描画するとなるとわからなくなる。
まして、熱したり膨らませたりすることで抽象化した図形について考えることは、私の能力を超えている。
同じように、観たことのないシーン、観たことのないものを「言葉」で描くのは、非常に難しい。
「突然、宇宙船が現われた」と書くのは簡単だ。
だが、それがどのようなサイズで、どのような形をしているのかを書くとなると、最小限の想像力を働かせなければならない。
まして、「なぜそのサイズで、その形なのか」について考えると、さらに問題は増える。
もちろんそのすべてを書くのが正解とは限らないし、そこが創作の醍醐味だとも言える。
思いついたいくつかのアイデアをなんとか大きな風呂敷で包み込み、無意識の「論理の飛躍」を潰し、アイデアとしての「論理の飛躍」をきちんと形にしたい。
ただ、もしかしたら、自分の能力を超えることをやろうとしているのではないだろうか、と不安になる。
私の脳みそは貧弱で、ちっぽけだ。
せめて、なんとか書きたいものを、書けるだけの力があることを祈りたい。

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