まったく専門家ではない私が、聞き齧りの知識を元に断定することには危険がつきまとうが、しかしすでにマーケティング的には、大量消費の時代は随分前に終わっている筈だ。
確かにドン・キホーテやダイソーには、格安の商品が文字通り山と積まれているし、ガストやサイゼリヤでお腹いっぱい食べても、大した金額にはならない。ユニクロへ行けば、それなりの服が色違いで多数用意されている。
しかし、確実に階層化が進み、中流が上と下に二極化した(そして、下が増えた)時点で、単価の安いモノで溢れたショップやメニューは、「自分にも消費可能なモノがこんなにたくさんある」というイメージを提供しているにすぎないように思うのだ。
そもそも消費に費やせる金を大量に持たない者にとって、豊富な選択肢があるわけではない。百貨店やブランドショップに並ぶ“アレ”と似たもの、同じ機能のものを、格安で手に入れることができて「お得」だと感じるのは個人的な感想にすぎず、実際には「そこでしか買う習慣がない」「それしか買うことができない」というのが低所得層の現実だろう。
かつて言われた「価格破壊」は、消費能力の落ちた者の消費を可能にするための、売る側買う側双方の事情を反映している。
さて、アキバで鬼になった彼は、同じ世代の多くの若者の中において、恐らくかなり上昇志向の強い人物であったように感じてならない。
バブル崩壊後に思春期を送った若者は、強い上昇志向を持つ少数の上層と、上昇志向を持ちづらい多数の下層に別れる、という見解はすでに多数提出されている。明るい未来を想定不可能な者が多いという意見もよく聞く。
だが、ここでいう上昇志向は、かつての経済成長期に多数の中間層に共有されていた「経済的・階層的に上層を目指す」という意味だけではない。団塊ジュニア以降の下層に顕著だとされる「自分らしさ」という価値観も含んだ、自己実現への欲求についてだ。
彼は経済的・階層的にはもちろんのこと、「自分らしさ」を志向するイマ風の価値観においても、挫折や敗北感を強めた筈だ。
しかも、そうでありながらなお、「無気力に生きる」ことを拒否したのだ。
コミュニケーションを含めた様々なスキルは、環境によって左右される。所属する階層によっても、そこに大きな差が生まれる。
しかし、とりあえずPCや携帯やゲーム機があれば、インターネットやゲームなどオンラインまたはバーチャルな広がりを確保することが可能だ。たとえリアルにおいて突出しなくても、こじんまりとした「自分らしさ」を構築することは、(私を含めて)多くの人が選択可能だ。もっというと、そこにささやかな満足を求めることは、それこそが現在の日本の、経済を含めた政策にかなった(正しい?w)庶民の在り方である気もする。
もちろん彼においては、そこに満足を求めることすら不可能だったという意見もあるかもしれない。不安定な職や生活に行き先のわからない不安を抱えていたのは間違いないし、それが社会に対する憤りへと繋がったこともその通りなのだろう。
だが彼は、その状況でうつ病にもならず、犯行を計画した。
そして、他者の生命を短時間にいっきに消費し尽くすことで、自らの人生を第三者に大量に消費される「情報」そのものに変換した。これはある意味、リアルな世界で状況に追いつめられた者が、リアルな権力を奪取しようとしたということにほかならない。
また、個人的には「すでに終わっている」と感じられていただろう「自分の人生」を、社会にはっきりと証明してみせたともいえるし、社会から報復されことによって完結する自死のストーリーを描いた、ともいえるだろう。
私は彼が、社会を糾弾する目的で行なったとは、思えない。
これは政治的な闘争を目的としたテロリズムではないし、たとえば東アジア反日武装戦線の思想的政治闘争とはまったく趣を異にする。
「世の中が間違っている」なんていうのは、後付けの理屈にすぎないと思う。なぜなら彼は、政治犯ではないからだ。
ある意味もっとざらついた理念無き闘争であって、テロそのものが目的であり表現であり、あるいは結論である筈だ。そしてそれは、現在世界のあちこちで起こるテロにもどこか繋がっているように思えてならない。
そしてそれは、動物的に自然な、(動物として)実に人間らしい行為である気がする。
私は別に、彼の行為を顕揚しようともくろんでいるわけではない。
ただ、バーチャルに埋没することなく、底辺の鬱憤をリアルに感じながら「無気力に生きる」ことを拒否した時、消費文化を享受した真性団塊ジュニアよりもさらに後の世代である彼が選択可能な「自分らしさ」の最終結論だったのではないか、と思うのだ。
そして、彼の犯行は大量に消費された後、あたかも一瞬の爆発であったように、見事に拡散してしまったように感じる。
大量消費される存在として手に入れた絶大な権力は僅かな時間の経過と共に消失し、後にはインターネットもゲーム機もない、不自由な生活が待っている。
それぞれの階層における個人がそれぞれの結論を出し、手続きとしての裁判と、恐らく死刑あるいはそれに準ずる判決が出るまでの、地味で変化のない(ある意味、安定/将来の確定した)毎日が待ち受けている。
しかし、インターネットやゲーム機のない拘束された毎日がいかに不自由であろうとも、彼はすでに、自分の将来を自分で決めなくていい。
自己責任で「無気力に生きる」ことを選択しないで済むのだ。
経済成長期にそれなりの成功を収めた者、よりよき明日を夢見て努力を積み重ねてきた者が、努力が足りないとか自堕落と批判するのは簡単だ。反骨精神あるいは責任感や協調性などを求めるのも、容易である。
しかし、何も持たず、守りたい「価値」(それはたとえば、『自分には生きている意味がある』という考えでもいい)を信じられない時、「他者を殺してでも生き延びる」という行為は、ある意味動物的に非常に自然なことなのではないだろうか?
私自身はわずかながら「持っている」と言わざるを得ないし、守りたい「価値」もある。
私の個人的な意思は、他者の権利を損なわない範囲で表現される必要がある。また、選挙などによって(わずかに)反映させることも含め、私個人が所持する(『人を殺傷する力』を始めとする)権力の一部は、日本国に委託してある。国家権力が強大であり得るのは、国民の信託によるものだ、と私は思う。
だが、その信託に価値がなかったり、見返りがなさすぎる場合は、個々人のサバイバルが時に大きな物語として浮上してしまう。
もしかしたら前の投稿で、彼は「絶望した」というようなことを書いたかもしれない。
しかし、今はちょっと考えが変わった。
彼はそれでもまだ「絶望」しきってはいなかった。だからこそ、あれだけの事件を起こしたんだと思う。
残る選択肢は「人を殺す」ことだけだったかもしれないが、それは「無気力に生きる」ことよりマシだったのではないだろうか。
実際には「そこで買うしかない」にも関わらず、個人的には「そこで買うのが得」だと思うのと同じように、たまたま「無気力に生きる」ことに耐えられない者が、「人を殺すしかない」と思ってしまうのだとしたら、(もちろん、この二者択一が望ましい認知でないのは言うまでもないが)果たしてどちらが健康だといえるだろう? いや、どうすればこの二者択一に、別のオプションを増やすことができるんだろう。
それとも、新しい世界の枠組みの中で、この国がなんとか生き残っていくためには、そういった状況すら、許容範囲のリスクとして受け入れていかざるを得ないのだろうか?
でも、だとしたらそれは、社会全体として受け入れていくという話だ。
ああ、そうか。
それで最近はどこのマンションや商店街でも防犯カメラを設置し、それが検挙に役立っているのか。
つくづく、日本がアメリカのような銃社会でなくてよかったと思う。
これでもし、銃が(表立ってではなくとも)もっと出回るようになったら、さらに悲惨な事件が起こる気がする。いや、早晩そうなっても私は驚かない。
ボウリング・フォー・コロンバインは、最早アメリカの状況を描いた映画ではなく、似たシステムに移行する(移行した)すべての国と地域に広く普遍的な物語に違いない。

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