「大量に消費されること(もの)にこそ価値がある」
これは事実かもしれないし、事実じゃないかもしれない。
しかし、商業活動において、あるいはマスコミやインターネットにおいて、そこに一定の価値を見いだすこと自体は珍しくもないし、誤りだとも思えない。
対人関係スキル、性格、容姿、社会的地位、年収といったパラメーターで個人の価値が規定されることは確かにある。
あるいは「規定されると感じる」ことがある。
少なくともそういう経験が私にはあるし、多くの人が経験していると思う。
オンライン上でも、言葉のやりとりやその内容、選択する言葉そのものに、(たとえ演出を含んでいても、その演出も含めて)人柄とか対人関係のクセとかが表れる。
そしてそれらは、他者によって判断され、その人の「人となり」として規定されていく。
ただ、インターネットではすべてが「情報」として処理され、ユーザーもそのように振る舞う。
もちろんオンラインでもオフラインでも、ひとつのパラメーターだけで「価値」を計ることはできない。
だがオンラインでは、アクセス数や転送量、あるいはレスポンスの量が、数値化可能なわかりやすい指標のひとつであることは間違いないだろう。
大量に消費されること(もの)に価値があることは周知の事実だ。
私もまた、大量に消費されたいと望んでいる。
残念ながら、大量消費を目的として創作することや、そのために創作以外の努力をすることがそもそも得意ではない。
アクセス数や感想に直接反応するようなことは、逆に自分の首を絞めると感じられる。だから普段は、他者からのレスポンスはたっぷり気にしたり参考にしつつも、自らの在りよう、自己評価を大事にしようと思う。
可能な限り自分を他者と比較することを避け、自分のやりたいこと・できることをできる範囲でやるのが私には向いている、と思う。
――もちろんこの考えには、自分自身の防衛も含まれている。
私の更新(新作公開)の遅さは、これはもう怠慢+能力の低さが表れた結果だ。自分なりのクオリティを落とさずに、もっとたくさん書けたら、そしてもっとたくさん消費されたら、嬉しいに決まっている。
そのように私自身は、可笑しくなるほど「大量消費」の価値を信奉している。
「少なくとも、情報として発信されたもの、商品として発売されたものは、可能な限り認知されるべきだ。それを必要とする、あるいは興味を持つかもしれない人に知られなければ、評価の対象にすらならない……」
――正しいか間違っているかはここでは問題ではない。
正しかろうと間違っていようと、それが「価値判断」の指針として支配的である、ということが重要だ。
今や、オフラインが「大量消費」以外の価値を保証するとは限らない。
コミュニケーションの薄れたオフラインは、オンラインのコミュニケーション以上に希薄で作られたものになっている可能性は高い。
閉鎖する家族、希薄になった血縁の縄張り、崩れゆく地域共同体から遊離した個人にとって、
コミュニティとはオンラインのことだ。
「情報としての個人」が、一番正直であるがままの自分だったら、
「情報の価値」こそが、「個人の価値」となるのではないだろうか。
そしてもし、できるだけ手っ取り早く、しかも確実かつ短期間に価値を高めたいなら、言動のひとつひとつをオンラインやマスコミュニケーションに同期させ、
逐一消費されるようにするしかない。
ああ、なんでヤツは、六本木ヒルズでも恵比寿ガーデンプレイスでもなく、わざわざ秋葉原で鬼になってしまったんだろう。
あるいは秋葉原であったとしても、なぜ再開発された「秋葉原クロスフィールド」へ乱入しなかったんだろう。
そうであったなら、事件はもっと政治性を帯び、階級闘争として受け止められたのに。
(……階級闘争を推奨しているわけではありません、念のため。
そもそも、日本の文化には、階級という概念自体が馴染まないような気もする)
「世の中が悪い」という自分の発言の「意味」を、もう少しヤツが真剣に考えていたなら、少なくとも無差別殺人にはならなかったんじゃないか……。私にはそう思えてならない。
逆にいえば、「世の中」なんていう曖昧模糊とした「概念」を、実在する敵として(単に言い訳にすぎないとしても)想定したことが、
悲劇の発端となっている気もする。
彼はたった一人で「世の中」と対峙していた。
一人で「世界」と向きあっていた。
そして世界を、自分に害をなす存在と見做した。
恐ろしいことだ。
一人で世界と闘う? ……勝てるわけない。
そう。人には無理だ。
――だから、人は鬼になる。
私はフィクションが好きだ。
物語を作るのが好きだ。
そして、物語が世界を侵食していくと考えている。
どうしてヤツは、トラックで秋葉原に入る前に、大手町へ行かなかったのか。
車なら目と鼻の先ではないか。
恐らく、すでにインターネットのあちこちで書かれていることかもしれないが、
平将門の首塚へおもむき、怨霊を眠りから呼び覚ます努力をすべきだった。
――だっておまえ、加藤だろう?
こういう妄想を書くと、不謹慎だと怒る人もいるだろう。
奪われた命、残された遺族の哀しみを考えたら、少なくとも公開の場ですべき発言ではないかもしれない。
でも私は、失われた人びとの命や暮らし、悲惨な事件のあらましを
わかりやすく描くこと、わかりやすい形で理解すること、
あるいは理解できないと片づけること……。
それら情報として消費することの全てが不謹慎な行為だと思う。
あるいは、眉を顰めて怖がることすら――。
これは、「新自由主義的通り魔殺人」事件だ。
ヤツは祝祭の空間である秋葉原を真の劇場として選び、その思惑を超えてすべてを消費可能にしてみせた。
事件に感情を揺さぶられた人びとが今日もかの地を訪れ、献花台に花を載せる。
「せめて花だけでも……」涙ながらにそう語る名も無き人びとは
テレビカメラに映ることで、自ら(すすんで)消費可能な情報へと身を投じている。
そうして、新たな情報が生産され、発信される。
もちろん、彼らにも、ショックを受けた多くの人にも罪はない。
ただ私には、このどうしようもなく不謹慎な仕組みが、ヤツの凶行によって浮かび上がったというそのことが、気になって仕方ない。
彼の起こした事件(=発信した情報)を元に
(このブログも含め)一体今どれだけの情報が拡大再生産されているんだろう?
しっかりと縄張りを張ることで、自他の境界を明確に確保できている人は幸福である。
善悪の彼我を、信奉できている人は選ばれない。
個人の価値を、「情報を消費されること」に頼らずに済む人は、迷う必要はない。
それとも、私はただ躊躇わずに消費していればそれでいいんだろうか?
もしかしたら、私はある諦めをもって、それを受け入れなければいけないのかもしれない。
きっと、それが大人らしい態度なのだろう。
この世界は、幾ばくかの生け贄や鬼を必要とするのだ。
私たちにできるのは、よりよいシステムへ改善し、あるいはメンテナンスを続けることだが、
それでも完全なシステムなど在りえない。
少しずつシステムが変更されても、今後もきっと、鬼や生け贄は選ばれ続ける。
その度に私は、やりきれない思いをして、
その度に私は、鬼や生け贄について語らずにはいられないだろう。
それもまたシステムへの寄与であるのと同時に、激しく不作法で不謹慎なことだと自戒しつつ。
ああ、しまった。
また長くなって、EGOists' BBSにちらっと書いてた世界系については
触れる余裕がなくなりました……orz
またいずれ。

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