自分の書いた文章がいろんな人の目に触れることは、様々な喜びをもたらしてくれる。
自己顕示欲の満足もあるし、読んでくれた人から感想を頂けば、なにがしかのコミュニケーション欲求も満たされる。
誉められることはそれだけで単純に嬉しいし、何か深い洞察や共感を伝えて頂いたりした場合には身体をくねらせて天にも昇るような気分になってしまう。
ありがたいことだと思う。時には、嬉しくて泣きたくなるようなこともある。
その一方で、シビアな意見もまた、自分に必要だと思う。
落ち込むこともあるけれど、それもまた作品を読んでくれた証だったりする。
さらにこれは贅沢な欲求だと思うけれど、テーマや表現や面白い部分をそこそこ認められた上で、さらに自分ではなかなか気付けない部分を、的確に指摘されることは大いなる喜びだ。
「誉めて伸ばして〜♪」
大声でそう叫びたいw
そして嬉しいことに、そういった感想をこれまでいくつか頂いている。
至らぬ部分は、なんとかクリアしたいと思っている。
しかしその一方で、マイナスであるその“至らなさ”が気にならないほど、魅力的なお話を書きたいという気持ちも湧いてくる。
いつか、「たくさんの欠点を抱えながら、なおこの物語は面白い」と思って貰えるような、そんな作品を作りたいと切に願う。
しかし、それ以上に今は、少なくとも読んでくれた人が、面白かったと感じてくれて、「コイツの作るホラ話をまた読んでみたい」と思ってくれるモノを書いていきたい。
自分でハードルを上げてしまうのも一部仕方ないことではあるけれど、とにかく「また読んでみたい」物語を作ることに専心したい。
――以上は「公開すること」の喜びである。
もちろんそこに、かなり大きな比率で「書くこと」のモチベーションがあるのは間違いない。けれど私の場合は、それだけが「書く喜び」ではないし、それだけで書けるわけではない。
妄想やぼんやりと浮かんだフィクションが少しずつ形になっていき、物語として姿を現す。
その形や質感は、私がただ頭の中で想像していたものとは微妙に違う。
違うが、しかし、ひとまとまりの形をとっているというそのことだけで、十二分に嬉しい。
言葉が文字となって連なり、その言葉が繋がって文となり、文が重なって文章が形作られる時の、不思議な快感もまた「書く喜び」だ。
頻繁にカーソルを左右に移動し、上下にスクロールし、さらには別のファイルからコピー&ペーストしながら言葉や文を入れ替え、文字を埋めていく作業は、どこかテトリスにも似ている。
ただ、テトリスの場合はきちんと一列揃うと消えてしまうが、文章はそうではない。
収まるべきところに収まった言葉や文が、ひとつの塊となって残っていく。
青いブロックだけで数列組まれている部分もあれば、黄色と赤が格子状に模様を作っている部分もある。そのデザインがきちんとまとまったものになっていて、整合性と同時に幾許かの意外性を持っている時、それは眺める人にも心地よいものになるだろう。
空から降ってきたアイデアや言葉の幾つかは捨てることもあるが、可能な限り面白い絵を描きたい。
「書く喜び」はそれだけではない。
自分でも気付かなかった答。
それを探し求めて書いているようなところが私にはある。
登場人物たちが動き、行動し、発言する内容は、できる限り無理のないよう、不自然にならないように気をつけているし、逆に不自然な行動をさせようとすると、どうしても筆が止まってしまう。
多分、頭の奧では、そこに無理があることがわかっているのだと思うが、しかし自分自身では何故うまく動かないのかがわからない。あるいは、理由はわかっているが解決策が見つからない場合もある。
フィクションは、無茶な課題をクリアすることにその爽快感の一端があるように自分は思う。
たとえば、地球上のどのような科学力をもってしても倒すことができない宇宙からの侵略者に、パチンコ玉だけでどうやって闘いを挑むか。
たとえフィクションであっても、その世界におけるルールや法則はある。
そのルールや法則に違反しない範囲で、無理難題に解決を探る。フィクションだからこそ可能なミラクルでアンビリバボーな解決は気持ちいいし、逆に地味でそれほど爽快感はないが、しかしリアルなオチでもいい。
あるいは解決策が提示されなくてもいい。
そこで、世界や人に対する自分なりの発見ができれば、それは喜びとなる。
物語を書く中で、小さな発見はたくさんある。
その小さな発見を重ねることで、次の章ヘ話を進めたい。
――何度か書いているように、私はマラソンが苦手だ。
にもかかわらず、今公開しているお話の大半が、走り始めたのはいいものの未だにゴールの見えない道の途中だ。
次々と降ってくる物語の種は、一部は『大人綺譚』のように短編のものもあるが、その大半が中・長編のネタだ。
もともと、小説は読んで疲れるものだと思う。
――さらっと読めて後味スッキリ。そういう小説ももちろん大好物なのだけれど、一冊でどしんと重くなり、しばらくその余韻に浸るような、そんな小説に幾度となく巡り合い、深い感銘を受けてきた。
そして、かなうなら、自分でもそういう物語を書きたいと思っていた。
ぐったりと疲れる物語。
そのようなものを書くには、書き手もまた読み手以上に、ぐったりと疲れる作業が必要なのではないだろうか。
だったら、もっともっと疲れ果てながら、あれこれやっていればそれでいいじゃないか。
ローカルのHDには、約3万字を費やして一章を超え、二章を半分くらい書いたものが二つ、一章分に相当するところで止まっているものがさらに三つ、2万字くらいの短編としてなんとかまとまりそうなものが一つ。他にもプロットだのメモだのがひしめきあい、さらに新たな物語の種が増えていく。
すでに、その全部を自分が書けないことは見えている。
ついつい細かい描写を加えてしまうことで、逆に物語が進まないという自分の悪い癖もなんとかしたいと思っている。
完成させた時の喜びも知っているし、とにかく書き上げることの大事さも、もっとしっかり肝に命じたいと思う。
だが、もっとしっかりと心に刻んでおこうと思っていることがある。
――何かが来てしまうのは、それは自分が待ち望んでいるからだ。
やってきたお話を形にするしないは私の自由だけれど、それは多分、来るべくして私のもとに降ってきたのだろう。
果てしない到達点に気が遠くなるような物語が来てしまうのは、それを自分が求めているからだ。
ならば、それがやってくることを、大いに感謝すべきだと思う。
どのような形にしろ、私には書く喜びが約束されている。
疲れ果てることを恐れず、僅かな一歩を今日も歩こう。

0