多分、随分昔に読んだ「話を聞かない男、地図の読めない女」に書いてあった気がするのだけど、男の脳と女の脳には随分と違いがあるらしい。そして、その大きな差のひとつが、脳梁の太さだという。
脳梁というのは右脳と左脳をつなぐ部位で、一般的に女性の方が太く発達しているそうだ。つまり、右脳と左脳の連携が密だということらしい。
上記の本は、たとえば男女差の発生に関する社会的な要因、つまりジェンダーに関する考察は全体的に緩いし、それと脳の器質的な差との因果関係についてはあまり語られていなかった。また、実験や標本抽出といった実証的なアプローチも、必ずしも豊富ではなかったように記憶している。しかし、深く頷けるところもあり、ネタとしては実に興味深かった。
で、その本に書いてあったのか、別の本だったか、はたまたTVで見たのかは忘れたのだけど、たとえばある光景を見た時の注意力、観察力は、どうも女性の方が優位らしい。
たとえば、ある部屋に入り、そこから出た後で部屋に何があったか報告してもらう、というような実験を行うと、男は「部屋の真ん中に机がありました」などと答えるらしい。
で、この答は多くの女性にとって、かなり呆れてしまうほど、何も見ていないに等しい答であるようなのだ。
確かに机はあった。
でも、その机の上には花瓶があって、三本の赤い薔薇とカスミ草が飾られており、机の中央にはちょっと傾いた角度でレターパッドが置かれ、しかもそこにはブルーブラックのインクで文字が書かれている。どうも書きかけらしく、そばに投げ出された万年筆はキャップが外されたままだった。
などということを一目見ただけで、きちんと記憶していたりするのである。
あるいは、花瓶の反対側に置かれたスタンドがついていたこと、それはどの程度の明るさだったか、机の隅にインクをこぼしたらしい染みがあったことなども、見ていたりする。
はては、部屋の壁の色と素材、窓にかかったレースのカーテンの開き具合、照明器具の種類、反対側の壁にかけられた絵の額縁の模様と中に描かれた風景と色彩、床に敷かれたカーペットの模様や素材、その感触なども、覚えていたりするようなのだ。
実際にそういう実験をすれば、男には及びもつかない膨大な情報を、多くの女性が感知する可能性が高い。恐らく、私の男脳では想像することすら叶わぬ、たくさんの情報をその部屋は持っていて、女脳はそれらを敏感に察知するらしいのである。
「ネゴシエーター」(1997年/原題:『METRO』/監督:トーマス・カーター)*というハリウッド映画で、エディー・マーフィーが演じるネゴシエーター(=交渉人。人質事件の犯人と人質の解放などを求めて交渉する警察官)が、部下となった元SWAT隊員に、訓練用の部屋を使って「一瞬にしていかに多くの情報を読み取るか」という訓練を行うシーンがあった。上に書いたような観察力を養い、状況判断の材料とする訓練である。
*同じネゴシエーターをテーマにした映画なら、その名も「交渉人」(1998年/原題:『THE NEGOTIATOR』/出演:サミュエル・L・ジャクソン,ケビン・スペイシー/監督:F・ゲイリー・グレイ)の方が深みと渋味、それにスリルも大きい傑作だと思います。……が、エディ・マーフィーのネゴシエーターも、あの独特のしゃべくりと見ていて飽きない愛嬌のある顔が好きな人なら、文句なく観ても損はないでしょう。シナリオや演出も、前出の「交渉人」にはかないませんが、エンターテイメントとして十二分に楽しめる良作になっていると思います。ネゴシエーターものなら、日本にも『踊る大捜査線』シリーズの「交渉人 真下正義」(2005年/監督:本広克行 / 主演:ユースケ・サンタマリア)がありますが、こちらは残念ながら見ていません。いつかDVDででも……。
さてさて、話がズレてしまった。
そのように、男は女より観察力が劣る可能性が高いのだとしても、もしネゴシエーターが訓練によって観察力を身につけるのであれば、我々一般人だって(素質やモチベーションの差はあるにしても)ある程度意識的にそうすることで、多少の観察力がつくかもしれない。(長年オン・ザ・ジョブで鍛えられた刑事は、一般人よりも数段観察力があるように思う。あ、あと占い師もね)
なんでそんな話をするかといえば、実はこの観察という行為が、創作とも大いに関わっていると思うからだ。特に何らかの説得力を作品に加えたい場合、観察力がある方が数段有利だと思う。
先に書いたように、そもそも男脳の私は、観察が得意ではない。
だからたとえば連れ合いと道を歩いていて、「お、本日ニットのパーカー4人目〜」などといわれても、「え、何? どの人?」と振り返ることになる。そもそも道を歩いている時に、他人がどんな服装しているか見ていない男は見ていない女よりも圧倒的に多いだろう。(いや、関心のある男性もいっぱいいるだろうけれど)
間違いなく、そこには「見ているか、見ていないか」の差がある。
そして、たとえ目にしていても、「見ない」者には見えないのだと思う。
このことにはもちろん、関心があるかないか、自分の守備範囲の情報かどうかが大きく関係している。
デジタル・ミュージック・プレイヤーに関心のある人は、イヤフォンをしている人が首から下げているのが、iPodnanoなのかWALKMAN-Sシリーズなのか、あるいは何GBのタイプなのか、気になるかもしれない。ファミレスの後ろの席から、「そういえば『時をかける少女』見た?」なんて話が聞こえてきた途端、耳をダンボのようにしてしまう人もいるだろう。
ただ、小説を書く時には、関心があるなしに関わらず最低限の観察が行われてる方が、圧倒的に有利なことがある気がする。
それは、観察が想像力の元になるからだ。
人は、自分が想像することのできないものを作りだすことはできない。
たとえ、絵筆を握って、何の作為もなく画用紙に向かい、でたらめに筆を走らせたものが、自分の見たこともない絵になったとしても、それだけでは人の想像力を超える何かではない、と私は思う。
まして、お話を書く場合は、最低限そこで起きることを「説明」しなければならない。そこがどこで、誰が何をして、はたまたどんなことが起きるのかを、言葉で説明する必要がある。
そしてその説明のために、見ることが重要であると思う。
上の方に私が書いた「部屋」は、実際に目にした部屋ではない。私の頭の中だけにある、想像上の部屋だ。小説に部屋を登場させる時に、どれだけ描写するかはその作品にもよるだろうし、部屋の重要度にもよるだろう。一切説明せずに、「部屋に入った」というのも当然アリだ。
どこまで描写するかはともかくとして、もし書くならばそれは、想像の中で「部屋」を見て、そこにあるものを「説明」していくことになる。
「秘密の箱」の新しい章を書いていて、どうにもうまく繋がらないシーンがあった。
絵梨とノブアキに何度も同じセリフを喋ってもらい、何度も同じ行動をとらせたが、どうにも上手く行かない。そこをハショることも考えたが、それでは必要なこと、書きたいことを書けない。
何人かにサジェッションを頂き、頭の中でカメラを引いて、二人を含めたまわりの風景を見てみた。カメラというのは喩えだけど、映画ならそんな感じだ。今までバストアップで交互に二人の表情を追ってばかりいたので、遠くから俯瞰のシーンを見てみたといってもいい。
そこには、直接の登場人物ではない通りすがりの人や、物語とは関係のない赤の他人がいっぱい入り込んでくる。時間と場所から、どのような人がどのような形でそこにいるのかを考えると、当然彼らの動きも見えてくる。今まで「見えていなかった」人びとの言動が、そこにはあった。
そして、物語とは直接関係がない筈のそんな人びとが、間接的に関わることで、今までどうにも繋がりの悪かった部分が、スムーズに動き出したのだ。
もちろん、その全ては、私の創作だ。
にもかかわらず、そこには「見る」という行為が必要不可欠だったように思う。
拙い観察力しかない私だけれど、それでもただ「見る」だけで、世の中は随分変わったものになる気がする。

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