「物語」ということばを、これまで随分とゾンザイに扱ってきたように思う。
オンライン上で自作のオリジナル小説を公開するにあたって、最初のうち「小説」という言葉を使うことがどうしてもできなかった。私にとって「小説」というのは、本に印刷されたもののことだったし、それ以上に「小説書いています」なんていうのが気恥ずかしかったのだ。
「妄想を形にしてます」というのは、ずっと気が楽だ。「物語を書いています」というのは、さらにもっとずっと的確で、自分にしっくりくる感じがした。
何度もいうように、私が書いているのはすべてフィクションだ。でも、ほとんどの人は自分の頭の中に様々なフィクションを抱えて生きていると思う。モノカキがフィクションを書く時に題材にするのは、その頭の中にあるフィクションだと思う。
つまり私の考えでは、ほとんどの人は頭の中にフィクションを抱えており、それを文章で表に出すのがモノカキだと思うのだ。(ノンフィクション,ドキュメンタリーは除く)
もちろん全てのフィクションは、その人が現実の生活の中で体験した記憶を材料に構築される筈だ。これには、その人が読んだ本、見た映画やドラマ、聞いた音楽、観賞した絵画なども含まれる。フィクションは、非常にリアルなものから、突拍子のないファンタシーまでたっぷりと幅がある。
人びとが頭の中に抱えるフィクション――。それは、将来の計画だったり、来週のスケジュールだったり、こうなればいいなという夢想だったりするかもしれない。
たとえば「明日、友だちと待ち合わせをして映画を見る」という計画は、今日はまだ実現されていない。しかし、(ある程度の幅はあるものの)それなりに楽しい時間を過ごすことが期待されるリアルな想像がそこにはある。逆に「もし宝くじで1億円あたったら?」と想像することは、現実的には非常に低い確率だが、多くの人が何度か考えたことがあるんじゃないだろうか? 確率は低くとも、実際に宝くじを買えば、それはまるっきり可能性のない夢ではない。私なんかは、「もし、たまたま道で拾った宝くじで1億円あたったら?」という空想をするけれど、これなどはさらに確率の低い夢物語だ。
でも「絶対にあり得ない」というわけではない、ある種のリアリティが付加されている(と、私は思うw)所が、物語の面白いところだと思う。
人びとが抱える物語には、そのようにある程度フィクションであることが自覚されている場合もあれば、ほとんど、あるいは全く意識されない物語も存在する。
たとえば、来週の水曜日に打ち合わせで、13:00に仕事の打ち合わせでAさんと会うことになるとする。それはまだ、私とAさんの頭の中だけで決定した未来の予定にすぎない。もしかしたら、私かAさんのどちらかの都合が悪くなり、キャンセルになるかもしれない。火曜日に大地震が起きて、とても打ちあわせどころじゃなくなるかもしれない。はたまた、水曜の早朝、上空に突如現われた円盤の大軍によって、地球は占領されてしまうかもしれない。もちろん以上の3つの可能性は、後のものになればなるほど非常に低い。だから、普通考慮に入れる必要などなく、平気で水曜の待ち合わせが可能だ。そんなことをいちいち心配していたら、間違いなく日常生活に支障をきたす。
だが、「そんなことは絶対に起きない」とはいいきれない。特に、最初の「どちらかの都合が悪くなる」ことは容易に起こりうる。しかし、どっちかが都合悪くなった時には、極力早めに相手に伝えれば大抵はそれで済む。私たちは在る程度の変化にどう対応したらいいかも学習している。だからその時点では、わざわざ考える必要がない。
つまり、未来は、その時点では未確定であるにもかかわらず、フィクションだと認識されていない。それだけでなく、「会えない可能性」があること自体、一切考えられない場合も少なくない。
その時、「会って打ちあわせ」」というフィクションは、無意識のまま「物語」として成立している。
さて、たとえば私が、「約束は絶対に守らなければならない」と思っていたらどうだろう?
その日の朝、急に虫歯が痛みだし早く歯医者に行くべき状態に陥ったり、身近な人が体調を崩し付き添わなければならなくなったとする。それでも「約束は絶対だ」という自己規定が強いと、そこで非常に困ったことが起こる。私は、自分の信念に従って自分の身体や身近な人の体調を無視するか、あるいは逆に自己規定を無理にでも曲げるか、どちらかを選ばなければならない。どちらにしても、大きなストレスに見舞われることになる。
逆に、たまたま相手の都合が悪くなり、断りの電話をしてきたとする。この場合、規定にそぐわない行動を相手はとっていることになり、もしかしたらその相手を馬鹿にしたり、腹を立てたりするかもしれない。「約束は絶対だ」というのが自分にだけ適用されるルールであるなら、腹は立たないかも知れない。それでも、どこかで自分の自由が他の人より非常に狭いことを思い知らされる可能性は高い。やはり、快適でないことは確かだ。
この自己規定を、「物語」と呼ぶこともできる。
心理療法・精神療法の世界には、「ナラティブ・セラピー」という考え方があるが、そこではこういった自己規定を「物語」と呼んでいる。
別に詳しく調べたわけでも、勉強したわけでもない。ソーシャル・ワーカーをやっている友人との会話で度々話題に上ったりして、興味を持ったのが最初だ。それにセラピーとはいっても、治療法の名称ではなく、「考え方」や「立場」の表明といった方がいいかもしれない。
ナラティブ・セラピーでは、「人は自分が経験したことや人生を、事実そのものとしてではなく『物語』として認識している」と考える。また、「客観的真実」というものは存在せず、「現実」は(たとえば言語を媒介にした)コミュニケーションによって構成される、という見方をとる。
その上で、人が語る「物語」こそが、その人自身や人生、あるいは社会の在り方を決定していく、という。
この考え方自体が、フィクションに思える人も少なくないだろう。
でも私は、上で書いたように、元々人の行動のほとんどはフィクションによって決定されていると考えているから、非常に興味深く、また納得する考え方だ。
思えば、アポロが月に到達したのも、携帯電話がこれだけ普及したのも、多くの人が共有した「人類の夢」というフィクションが、知恵と努力の結果、形となったものだ。
ナラティブ・セラピーの特に面白いところは、「ある人が抱える『物語』をその人自身が語ることで、物語そのものが変質していく」ということに主眼を置いているところだ。
その人の内側にある「私は、人は、人生は、こうあるべきだ、こうすべきだ」という自己規定が、当人(あるいは回り)を苦しめることがあると書いたが、その「物語」を語ることで変更可能だというのである。
また、そういった自己規定は、その人自らが望んで選択したわけではなく、外部から与えられ内面化した「ドミナント・ストーリー」(支配的な物語)であると“定義”されているのも実に興味深い。
その多くは、親、教師、目上の人びとなど、権威ある者によって与えられた(定義された)ものであり、「物語」に過ぎないというわけだ。(物語には、正しいか間違っているかといった価値は含まれていない)
これを社会全体に広げて見れば、世間で広くそう思われ、信じられている「固定観念」や「常識」といったものもまた、ドミナント・ストーリーということになる。
その内面に組み込まれた「ドミナント・ストーリー(支配的物語)」が当人を苦しめている場合に、別の自由な物語=「オルタナティブ・ストーリー」を書いていこう、というのが「ナラティブ・セラピー」である。
ここで使われている「物語」という言葉が指しているのは、「認知」だったり「自己規定」だったり、「常識」だったり「言説」だったりするわけで、私がWEBにアップしている「物語」とは意味が違う。
しかし、ことモノカキ、しかもフィクションを書いている私にとっては、オーバーラップする部分も少なくない。
私の書く物語には、間違いなく私の「認知」や「自己規定」、私が信じるところの「世界の在りよう」が反映されてしまう。それはやむを得ないところだ。だからせめて可能なかぎり、物語ることで自らのフィクションを外から見える形にし、対象化し、ドミナントからオルタナティブへと変更していきたいと思う。
もちろん、人は自分が信じたいことを信じたいように信じ、見たいものだけを見て、聞きたいことだけを聞くようにできている、と私は思う。
何かよほどのメリットがない限り、人生の地図を書き換えたりはしない。(そう簡単に書き換え可能だったら、逆に不安定で仕方ないしw)
それは、人体の他の部分ではほぼ3年で細胞が総入れ替えされるのに対し、脳細胞だけは入れ替えがないこととも無関係ではない筈だ。(使用する神経細胞の回路は切り替わるようだけど)
だから、どんなに語ろうとも、「支配的言説」から完全に自由になれるわけではないし、その必要もない筈だ。地球上での法則(たとえばニュートン力学)が宇宙空間では通用しないからといって、すべての人がより普遍的な法則(たとえば相対性原理)を理解しなければならないわけではないように、私は私の生存と快適に不自由を感じなければそれでいい。
そしてそれは、私の書いたものを読んでくれる人たちにおいても、まったく同様である筈だ。
人によって、大量にフィクションを消費する人と、そうでもない人がいる。つまり、架空の物語(小説やマンガ、映画やTVドラマ、そしてゲームなど)を好んで楽しむ人と、それほど沢山は必要としない人がいると思う。
でも、もし私の書く物語を気に入ってくれる人がいるなら、その人たちに何らかのオルタナティブを感じてもらいたいと思う。(私はワガママで欲張りなのだw)
ちょっとしたいいまわしでも、エロスの肯定でも、ユーウツの存在でも、諦めの悪さでも、イメージされた情景でも、文体でも、何でもいい。
それが、たとえ一時であっても、ただその時間をなんとなく過ごすだけであってもかまわない。
かすかな違いがあって欲しい。
もし何らかの意味があればそれは、私ではなく読んでくれた人の内側で新しい物語が生まれたということである筈だし、たとえ意味がなくても、そこにわずかな楽しみがあれば、これ以上の喜びはない。
自分の力量もわきまえぬ、不遜な望みかとも思う。
でも、物語ることで、変わっていきたい。
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【ナラティブ・セラピー】
参考HP:
http://homepage3.nifty.com/kazano/narrative.html
http://www.jttk.zaq.ne.jp/babmt806/newpage42.html
http://kokoro707.hp.infoseek.co.jp/therapy/narrative.htm
「心理学を実践からとおざけるもの」(pdf)
http://www.nakahara-lab.net/sugimoto.pdf
参考図書(私が読んだ本)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4535561257/250-1897827-9293027?v=glance&n=465392
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