「くそ〜、ヤられた」
すぐにそう思った。
そして、
「ヤべー、ヤバすぎる……」
焦りまくった。
「僕らはどこにも開かない」(電撃文庫)は、現代の日本を舞台にした(と思われる)「魔法」の物語である。私たちが暮らすこの「社会」、私たちの「身体」、そして(もしそんなものがあるとしたら)私たちの「心」に生まれ、あるいは知らないうちにかけられている「魔法」についての物語である。
読んでいる最中も、読み終わった後も、焦りにも似たドキドキと、これから何かが始まるようなワクワクを同時に感じさせられた。もっと正直にいうと、「ヤられた」と思った。「ヤバい、ヤバすぎる」と思った。嬉しいことに、マズいことに、その高揚感は未だに完全にはおさまってはいない。
数日前――。
その日の東京は薄曇りだった。強烈な日差しを投げかける太陽は時々顔をのぞかせるものの、すぐにまた雲に隠れる。しかし、湿気をたっぷり含んだ空気とごった返す人の熱気で、新宿の街はむせ返る暑さだった。
浴衣姿の男女が行き交い、大音量で店のテーマソングが流れる大型量販店の脇を通り、新宿駅の東口から南口へ向けて私は歩いていた。ネット上では何度も話しているものの会うのは初めてという2人とともに。
1人は「ふたなり」の格闘少女にエロいことをさせるのが得意な某オンライン作家、もう1人もやはりフェティッシュなエロ作品を書く作家で、「GIRLS LOVE」と「BOYS LOVE」の両方が守備範囲という某嬢――。喫茶店で歓談した後、遅れて合流する予定の別のオンライン作家を待つ時間を、どこか本屋でも見て回って潰そうということになったのだ。
「もし歩くのが嫌じゃなかったら、南口へ行ってみませんか?」
ただぶらっと散歩がしたいかのように、私は彼らにそういった。実は、ちょうど今書いている「秘密の箱」で絵梨とノブアキが出会っているその場所を、もう一度実際に歩いてみたかったからなのだが……。
物語で使用している一帯をだらだらと歩き、街頭でシシカバブを売る屋台の前を通り過ぎる。ガードをくぐって反対側に出て、デパートの高島屋や“Do it Yourself”の東急ハンズ、それにセガのアミューズメントパークなどからなる複合ビル、タイムズ・スクエアに入る。エアコンの効いた店内で涼をとりながらエスカレーターで二階に上がり、再び外に出てウッドデッキを代々木方向に歩いて、目指す大型書店=紀伊国屋に辿り着く。
そこで私たちは、自分の好きな本と読みたかった本、あるいは今話題の作品について話をしながら、マンガから医学書、PC関連のコーナー、それから当然小説と文庫のコーナーなどを見てまわった。
そして私は、電撃文庫が並べられた一画にたどりつき、平積みされている「僕らはどこにも開かない」に巡り合ったのだ。
ポップには確か、「前代未聞!」とあった。さらに細かい字で、ネタバレしない範囲で雰囲気が伝わる紹介文が書かれている。
――何が前代未聞かって?
それは、ライトノベルといわれるジャンルの小説・文庫でありながら、カバーにも本文にも、一切イラストがないことだった。
表紙には、すっきりと美しいタイトルロゴが、暗闇に浮かび上がるネオンサインを模した処理で全面に配置されている。
「僕らはどこにも開かない」
ああ、そうなのだ。私はすでに、そのタイトルだけで充分ヤられていたような気がする。
それは作者の結論なんだろうか? そもそも「どこにも開かない」って、一体どういう意味なんだろう?
――心地よく秘密めいたことばが私の中の何かを震わす。
私は一旦その場を離れ、別の場所で別の本を見ていた二人を呼んだ。
「なんか、凄く私好みっぽい気がするんだけど、どうだろう?」
それから何を話したかはよく覚えていない。
ただ、確かこういったように思う。
「普段ほとんど本買わないんだけど、これちょっと買ってみようかなぁ」
言葉どおり、最近の私は本当にたまにしか書店に行かず、しかも購買に至るのはさらに極稀に、限られた馴染みの作者の手になるものだけだった。
「僕らはどこにも開かない」を買うことになったのは、もしかしたら何かの魔法が働いていたのではないだろうか?
――読んだ後でそんな妄想が湧いてくるくらい、不思議な魅力に溢れた小説だった。(私にとっては)実にエポックメイキンな小説だった。
「くそ〜、ヤられた」
それこそが、最後まで読み終わった私の、一番正直で事実に近い感想だ。
当然のことながら、著者の御影瑛路氏は私とは違うセンス、違う考えの持ち主である。だから、たとえ似たようなことを考えていたとしても、そのプロセスや結論が違うのはもちろん、創作に無縁でないだろうメンタリティや、何かを書きたいと思う時のスタート地点もまったく違う筈だと思う。
しかし、この作品の中で取り上げられたモチーフやテーマは、かなりの部分で拙作「秘密の箱」と重なり合っている。物語の中で登場人物たちに課せられる様々な(心的)課題は、私が書きたいもの、書きたい事柄と一部完全にかぶっていた。そして、それをどう捉え、どういう道筋で考えるかといった、いわば「考え方」のようなところでも、強烈なシンパシーを感じずにはいられなかった。
もちろん物語の進行作法や、ラストに描かれる(物語としての)結論は違う。ストーリーの過程においても、私には甘酸っぱくほろ苦く熱い体の記憶として残っている“思春期”が、(恐らく作者が私より数段若いだけあって)もっとずっとリアルで切実な、まさに現在に直結した感覚として描写されている。
あるいはジェネレーションの違いのせいか、この世界は私の知る以上にザラッとホコリっぽく乾いていて、また閉塞したものと受け止められているような気がする。そして、その閉塞感に気づくことそれ自体がある意味「障害」となることを、(恐らく)意識的にではなく、身体感覚として作者は掴んでいる。
彼らはかつての少年がそうであったような、同じ「閉塞感」を共有することによる連帯を夢見たりは絶対にしない。個の分断は、ほとんど完成といってもいい状態にまで進行していて、だからこそ「閉塞感」を感じ認めることそれ自体が、一直線に「障害」あるいは「怒り」となる。また「障害」や「怒り」に至らなくとも、そこに大きな「生きづらさ」があることは間違いない。
思春期の登場人物たちは、個々でその完結した「閉塞」と向かい合っている。それぞれが自らの生存をかけて、それぞれの小さな「魔法」でそれに対抗しようとあがいている。
そんな切ないテーマを、作者は読みやすい文体とテンポのいいストーリーテリングで物語る。重いが重くなりすぎず、リアルだがリアルになりすぎず、ファンタスティックだがファンタスティックになりすぎず、エンターテインメントとして見事に成立させているのだ。
それは文句なく面白かった。そして、切実さを感じた。
彼らの生きている(生きてきた)思春期は、私が生きた思春期とイコールではない。しかし、そこで何を感じ、何が問題なのか、フィクションとしてそれをどうしたいのかといった部分に、私は多いに共感を覚えた。(作品に親近感を覚えたからといって、それは読者が作者の意図や無意識を理解しているとは限らないけれども)
非常に勝手ながら、私の書きたいことを御影瑛路氏も書きたかったのだと感じたのだ。
これは大きな喜びを感じると同時に、非常に危険なことでもある。
この本が刊行されたのは今年(2005年)の5月だ。丁度その頃、私はヒミハコの2-11と2-12を書いていて、その両者で似たような疑問と(登場人物による)その答が語られているのである。
下手をしたら、まるで私がこの本を読んで、テーマをパクったと思われても仕方ないわけで、今後さらにその可能性は高まるのである。
テーマがかぶるのはよくあることだ。
しかし、その疑問の持ち方が似ている場合は特に、私が私にしか書けない話を書きたいのなら、どうしても別の筋道で考え、別の答を出す必要がある。(と、思う)
もしこれがつまらない小説なら、話は簡単だ。私はただ面白い話を書くことに専念すればいい。しかし、そうではなかった。
「僕らはどこにも開かない」は、非常に面白くて、しかも一部テーマがかぶっているのである。
私は今まで以上に用心深く、耳を澄ませなければならない。
注意深く、書かなければならない。
――そして、そう思うことは、私にとって決してマイナスではない筈だ。
この本を手に入れた翌日、私は浜松町へ向かった。
やはりオンライン上で知りあった激しく濃厚なイラストを描く某人気絵師に誘われ、コミケ後の打ち上げに参加するためだった。
電車の中で、「僕らはどこにも開かない」を読み始めた。
東京駅で山手線に乗り換える時も、私は文庫を閉じようとしなかった。本当はやってはいけないことなのだが、老眼用のメガネをかけたまま、ぼんやりとした視界を時々文庫に戻しながら、階段を上り下りしホームからホームへ移動した。
そして、電車の中で4分の1ほど読み進んだ時には、目的の浜松町を過ぎていた。
ああ、こんな本があったんだなあ。
私はこの作品との邂逅を誰にともなく感謝していた。
次の週、飯田橋で仕事をひとつ終えた私は、その後の予定があったにもかかわらず、コーヒーショップで残りを読み終えた。
「ヤられた……」
物語はラストに辿り着き、タイトルの意味もすべて明らかになった。
私には出せない結論、私には書けないラストシーン。
過多になりすぎない必要にして十分な情緒とともに、物語はハッピーエンドを迎えた。
振り返ってみると、それはなんとも愛らしい物語だった。可愛らしい結末だった。
これが、シビアでがさついた物語世界のオチなのだとしたら、この作者の「物事を受け入れ、呑み込み、消化し、そして結実させる力」はいかほどのものなのだろう。
恐らく御影瑛路氏は、「ただ面白い話を書きたかった」と答えるに違いない。それでも、いやそれだからこそ「僕らはどこにも開かない」は、これだけ面白く、かつ雰囲気のある小説になったのだろう。
私にとって、実に危険な作品であり、作家である。
「秘密の箱」を愛するすべての人に、おすすめの一冊だ。

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