得意なスポーツというのがあまりない私ですが、特にマラソンは苦手です(笑
それでも学生時代には、体育の時間に走らされたわけで、
なぜ走るのか、何のために苦しい思いをしなければならないのか、
さっぱりわかりませんでした。
「散歩なら楽しいのに」って、マラソン大会の度に思っていました。
そして、ダラダラ歩いていた(笑
――そもそも、そんなことを考えること自体、マラソンには向いていないようにも思います。
汗をかくことも、息があがることも、そこに苦痛が含まれていることすら喜びになりうる。――というようなことは今だからわかるし、こうしてへ理屈を書くこともできます。
でも、じゃあ「今日から毎朝10km走れ」といわれて走るかといえば、やはり断ります。
もちろん走るのが朝じゃなくて夜であっても。
さて、前にも書いたように、長篇小説を書くのは、マラソンに似ています。
急ごうとすると、途端に苦しくなります。
自分が進んでいる道が、あっているのか間違っているのか
それを考えただけで、途端にユウウツになったりします。
もしかしたら、コースを外れてしまっているんじゃないのか?
そう思うと、いてもたってもいられない不安に襲われます。
読んでくださった方は伴走者のように、あるいは街角の応援者のように暖かい声をかけてくださるのですが
しかし、このマラソン大会に参加しているのは実は自分一人である、という事実もまた厳然とあります。
別のお話を書いている作者の方々と時に雑談を交しつつ、
少しずつ移り変わる風景を見ながら
道を進むのは悪くありません。
無理して走るのではなく、
順位はどうであっても、声援が聞こえない道であっても、
もしかしたら、当初予定されていたコースから逸れてしまってもかまいません。
とりあえず、そこの電柱まで、走っていこうと思います。
電柱の先は、角のタバコ屋まで、その次は路地を曲がって
恐らく見えてくるであろう町工場を目印にして……。
走るのに疲れたらスピードを落とし、でも歩き続ければいい。
――そんな風にして、書いていきます。
私はこれがマラソンであることを知っています。
マラソンにはゴールがあることを知っています。
今、大体どの辺を走っているかも、
それが全体のどのアタリの位置なのかも、おおよそわかっています。
ここからどっちの方角にゴールがあるかも、そこに至るコースもおおざっぱには決まっています。
さらには、ゴールに引かれた白線や、そこで目にするだろう風景も、頭に思い描くことができます。
そこに辿り着いた時に、私が何を見て、どんな気分になるかも想像することはできます。
でも、今目にすることができるのは、ちょっと先の交差点だけです。
信号は赤だけど、私が辿り着く頃には青に変わるでしょう。
角にあるセブン・イレブンの前では、中学生たちがアイスを食べています。
その向かいにある古い屋敷には、大きな木があって、木陰が涼しそうです。
でもまさか、他所の人の庭に勝手に入ってくつろぐわけにもいかないか……。
じゃあセブンに入って、(マラソンのルールでは違反かもしれないけれど)お茶で喉を潤し、フランクフルト齧るってのもいいかもしれません。
――そんな風景は見えます。そんな想像はできます。
その交差点が、コース全体からすると丁度折り返し地点であるということもわかっています。
そこに辿り着けば、ここからは見えない別の景色が見えてくることも間違いありません。
……上の方で、「今目にすることができるのは、ちょっと先の交差点だけです」と書いたけど、
実は、遠くに山のようなものが見えています。
青くて、ちょっと頂上が煙っていて奇麗です。
でも、その山をしっかり見ようとすると、突然不安に襲われます。
もしかして、これは単なるマラソンではないんじゃないだろうか?
もしかすると、最後の方はだんだんと斜面になり、結局は登山するハメになるんじゃないだろうか?
――とか。
いえいえ、少なくともヒミハコは、山登りにはならない筈です。
たとえ先は長くても、せめてあの山の麓にはゴールがある筈です。
山を登る話は、また別の物語になるでしょうから。
でも、それでも山へのルートを確認しようとすると、
そこに辿り着くまでの道のりに、途方もない果てしなさを感じます。
ましてその後、山を登ることになるかもしれないなんてことを考えると、恐ろしくて恐ろしくて身体が動かなくなるのです(笑
逆に「ああ、奇麗な山だなあ」とぼんやり眺めている分には
そこに辿り着いてみたいと思えます。
あの山の麓で、ノブアキと絵梨と亜美香がにっこりと微笑んでいるラストシーンを私は書きたい。

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