「中二病でも恋がしたい!」
やー、まだ第二話めをみただけで、感想というのも何なんですが、
あれこれ感慨深いので久しぶりにブログ更新です。
一部、掲示板とかぶる部分もありますが、ご容赦。
で「中二病でも恋がしたい!」──。
これって、多くの戦闘美少女ものや、魔法戦闘もの、日常×異世界交錯ものを完全に解体してしまっているわけですが、
いいんでしょうか、それでw
いや、実はその後「とりあえず初回をお試しで見よう」としたアニメの幾つかが、
「中二病」見た後ではギャグにしか見えなくなり、我家では事件が起きてます。
たとえば(どのアニメかはあえていわないけど)意味あり気に片手だけ黒い手袋してる転校生に向かって、
ヒロインが「その手袋の下には火傷がある筈」と問い詰めるシーンで、
連れ合いと2人で吹き出してしまった事件とか……www
その時点ですぐに視聴を断念、毎週予約の選択から外されるという憂き目を見ることに。
──もちろん、すべての美少女戦闘もの、異世界侵食/魔法戦闘ものアニメがギャグになってしまうというわけではありません。
似たような世界観、似たようなシチュエーション、似たようなキャラ設定であっても、お話のクオリティが高くて、
オリジナリティがあれば、多分まったく問題無い筈なのです。
ただ、これでまたとんでもなくハードルが高くなったというか、
物語の抱えるテーマや話の流れ、設定のクオリティ(アニメならキャラ造形や背景の美しさなど含む)がちょっと低いだけで
どんなシリアスな話でもギャグになってしまうという、恐ろしい状況だと
そう言いたいだけなのです。
や、私にとってデスノートは(っていうか夜神月が、かw)そうだったし、
それでもデスノート見るのは嫌ではなかったわけで、
逆にどうにも受け付けないアニメというのもこれまでも幾つもあったわけですが。
……さて、「中二病」本編について。
京都アニメーションの作画の美しさは、もう今まで何度も語られてきたことだろうし、
今作についても(検索してませんが)ネットのあちこちで語られていることでしょうから、多くは申しません。
まあ、ここ数年、ジャパニメーションの絵の美しさ(特に背景、情景描写、カメラワーク)は、
京都アニメーションに限らず、本当に進化し続けているなーと思います。
で、物語について。
原作を読んでいるわけでもなく、現時点でまだ第二話までしか視聴していない時点で感想書くのは、あまりに無謀だとも思うのだけど
まあ、与太話としてw
私的には上に書いたように「解体アニメ」だと思っているのですが、
しかし単にギャグとして解体して見せるわけではなく、物語としてきちんと成立させている作りなので、
どうしても「ある期待」を持ってしまっています。
そして、その期待が裏切られないか、ちょっとだけ心配もしています。
っていうのは、掲示板にも書いたけど、「荒川アンダーザブリッジ」で
河川敷撤去の話が「これはギャグ漫画なので」という形で片づけられてしまったことが残念でならなかったりするわけで。
たとえば現実に江東区で竪川河川敷公園からホームレスが追い出され、
テント撤去の問題があったりするのが現実世界です。
竪川河川敷公園のことについて
●江東区の説明
http://www.city.koto.lg.jp/topics/2117/65538.html
●山谷ブログ
http://san-ya.at.webry.info/201202/article_21.html
こういう現実に対して、フィクションであるアニメは、どういう解決を見せてくれるのか、
それこそが有る意味、フィクションの醍醐味だと思うのですが。
「荒川アンダーザブリッジ」も電波系のキャラ設定を利用したメタな話だと私は思っています。
そもそも「いずれやってくるだろう河川敷撤収」と「金星への移住」が
元々は対になっていた筈だったのです。
というか、それが現実に対するフィクションとしての答として、
可能なかぎりのミラクルな解決策として、「金星への移住」が存在し、それがどのように描かれるのか期待していました。
残念ながら「河川敷撤収」はあっけなく解決し、「金星への移住」だけがふわんと宙に浮いた形で残されてしまい、残念な限りです。
※私はアニメしか見ていないので、もしかしたら原作の方ではいい感じの「オチ」が用意されているのかもしれません。
で、「中二病でも恋がしたい!」にも、そこまで深刻な問題ではないけれど、有る意味もっと多くの人(特にアニメファンw)に共感されそうな「現実」はあるわけです。
──ええ、ええ、そうですとも。
私はすでに「若者」ではなく、「青年」と呼ばれるのも無理があるくらいのおっさんですが、
それが必要だというなら、もう誰にはばかることなく、「中二病? ああ、そうですが何か?」と答えてもいい。
で、もういい加減「恋だの愛だの」も、現実には面倒くさいので、フィクションで十分、
いやたとえフィクションだとしても、愛や恋ですべてを解決できるわけではないことは、秘密の箱の言う通り、ってなもんです。
(ごめんなさい、ごめんなさい、……しまった墓穴掘ったぜw)
もちろん、恋の話であることはタイトルに示されているわけですし、
それが物語(ひいては登場人物たち)を牽引していくモチベーションと力になることは必須、まったく問題ないし気にしていません。
しかし、これが様々なフィクションを解体しながらなお、再度語られる物語である以上、
いやがおうにも「フィクションとは何か?」というテーマを内包してしまう。
これが私の最大の気になる点だったりします。
たとえば第1話のヒロイン=六花(りっか)が登校時にゆうたと再会するシーン。
彼女は魔法で電車の扉をあけて見せるw
(ああ、思い出すのはウーピー・ゴールドバーグ主演の「コリーナ、コリーナ」
あれは本当に素敵な物語でした)
で、もちろんタイミングあわせて手をかざしただけなわけですが、
彼女の日常は彼女の脳内妄想世界と地続きです。
地続きでありながら、分断されている。
(もちろん、そんなことは六花にもよくわかっている)
その上で、分裂したこちら側とあちら側の世界を同時に生きている中二病者の「現実」に対して
フィクションはどんな「オチ」を用意するのか。
できれば、今まできいたことのない、見たことのない、
オリジナリティ溢れる「オチ」を期待してしまうのは、欲張りすぎでしょうか?
しかし、期待させるだけのものが「中二病でも恋がしたい!」にはあったりするわけです。
たとえば第二話。
六花が真剣な顔で「私は不可視境界線上の狭間を見つけたい」と言ったセリフ(正確なセリフかどうかは自信ないけど、そういう意味のことでした)に対して、ゆうたが一瞬見せる「え?」みたいな表情、
あのシーンはとても印象的かつ暗示的でした。
ヤボな解説になっちまいますが、
六花が姉の十花を「不可視境界線管理局(の聖調理人)」といってるってことは
六花の「中二病世界」は「不可視境界線」の向こう側にあり、
こちら側と交じり合わないよう「管理局」が管理してるってことになります。
んーと、つまり、六花が完全に妄想の世界に行ってしまわないように「管理」し
飯作って食わせてるのが十花、という現実を、
「中二病脳内変換」された六花の言葉で表現するとそうなるってだけです。
もちろん、六花も「現実の在りよう」については重々承知しているわけです。
ただ、上記のシーンで六花が言ったのは
「不可視境界線の向こう側に行きたい」ではなく
「狭間を探したい」だったか「隙間を見つけたい」だったか、(正確な引用でなくてすみません)
とにかく求めているのは「境界線の向こう側」でも「こちら側」でもないようなのですよ。
──なんだろう? 不可視境界線の狭間(隙間)ってw
このある意味ベタな「不可視境界線」というフィクションのネタが、
フィクションと現実の境界線として描かれるというメタっぷりにワクワクしちゃうわけです。
そして、そこに隙間だか狭間だかを設定することで、
何らかの答を導き出そうとしているんじゃないか。
──私にはそう思われてなりませんでした。
そしてそれこそが、この物語の底に流れる重要なテーマ(あるいはメタ・テーマ)なんじゃないかと思うわけです。
ちなみにこれは連れ合いが言ってたことですが、「まあ、姉と2人暮らしってことは両親がいないとか過去に何かあったとかはあるとしても、現実生活では何も困っていない」w
確かに、困窮生活してるようでもなく、姉貴しっかりしてるし、友だちは少ないだろうけど、学校でいじめられてるわけでもなく。(中学の時にはいじめられてたのか?)
っていうか、元々中二病は、「ごくごく普通の悩みやトラウマはあったとしても」
本当にありきたりでベタな日常の困難を、どう意味のあることとして認識するか、
という認知の在り方のひとつにすぎない、と私は思っています。
ぶっちゃけ、受験とか、友だちとの距離感とか、家族の不和とか、自分の気分の落ち込みや、だらだらと続く変化のない生活や、小遣いの少なさや、そういった面白みのないことで悩むくらいなら
いっそ全人類の存続や宇宙の秩序に関わる「世界の命運」で悩みたいw
っていうか、実際にはちっぽけな自分に何ができるわけでもなく、
──にもかかわらず、明日はテストだったり、宿題やらなきゃいけなかったり、
友だち少ないこと気にしなきゃいけなかったり、親の機嫌とらなきゃならなかったり、
もう本当にベタでつまらない悩みばかりが、次々と雑多に存在してたりするわけです。
だから(or でも)それを脳内変換して、「世界の命運を握る秘密」や「宿命によって定められた戦い」ならば
十分悩んだり傷付いたりするに値する。
大人でも子どもでもない、まさに「中二」が自分の身を守りつつ世界と向き合う
方策のひとつだと私は思ってます。
で、かつてはそういった「子どもっぽい空想世界」からやがて卒業し「大人」になることが望まれていました。
(かくいう私も、まさに中学の時に、当時つるんでいた友人と『SFごっこクラブ』なるものを作って妄想を共有していたため、担任教師からわざわざ呼び出され、「なんとかならんか」みたいな忠告を受けましたw 叱られたわけじゃないけどね)
今はさすがにオタク文化が世界的に認知されたこともあり、また思春期が延々と延び続けているせいもあり、「卒業」しなくてもよくなりました。
ただ、仕事(or 勉強)は仕事、趣味は趣味、という言い方はまだ普通に残ってるし、
「逃避」はあまりよいこととはされていないと思うし、
ひとたびオタクっぽい事件が起きたり、成人向けコンテンツが問題化した時などは
決まって「現実と妄想をしっかり区別すること」が推奨されたりするわけです。
エロ小説掲載サイトを公開している私がこんなこといっていいのかわかんないけど、
私は正直、「現実と妄想をしっかり区別」できている自信がありませんwww
それくらい、私の認知は「妄想」によって歪められていると思います。
っていうか「妄想」は「現実」と無関係には発生しない。
そして「人の行動」=「現実」は、その人の「信念(妄想含む)」そこから導き出される「選択(≒決定)」から生み出される。
個人の選択は、まずはその人の現実に、そしてやがてはその周囲にも大きな影響を与えるわけで、
現実は一部、実際に妄想と地続きだったりすると私は考えています。
そして、その「妄想」を形にしたものが作品としての「フィクション」なのだとすれば、
「中二病でも恋がしたい!」は、「『《フィクション》に影響された妄想と地続きの日常』を描いたフィクション」です。
そしてそれは、「フィクションが蔓延しそれに影響を受けている現実」に対して出されるフィクション側の答のひとつとなる訳です。
すくなくとも私は「境界線の揺らぎ」について考えたことはあっても、
そこに「狭間」があるとは思っていませんでしたw
たとえそれがパロディの果てにたまたま生まれた設定であったとしても、
不可視境界線の狭間に何があるのか、何を見せてくれるのか、
ちょっと楽しみだったりしているのです。
《たぶん、ここからメタネタばれw》
──や、狭間にいるのが「ゆうた」だ、というのはわかってるんだけど、
恋は恋として、それとは別にその「ゆうた」を通してどう世界を変えるのか。
居場所としての「ゆうた」の存在が狭間にあり、境界線を行き来できる力を与えてくれるとしても、
器用に動ける、というだけではないオチを期待してしまうのは
それほど欲張りなことではない筈……w
だって、それはすでに手に入れつつあるわけで。
──あ、そっか。ゆうたサイドから見た物語として考えればそれでもいいのか。
それでロープを使って降りてきたのね。
たとえばラピュタなら空から降ってくる筈だけど、現実には飛行石がないから。
やっぱり六花は何も困ってなくて、存在の不確かさに困っているのはゆうたの方なんだよね。
でも、それだけじゃやっぱつまらないから、六花にはマジで境界線の狭間を見つけて欲しいなあ。居場所じゃない、もっと別の何かを。
世界を変える≒認知が変わる、はそれでもいいんだけど、単なるスキルアップではなく、居場所ができるでもなく、
世界を変え得る何か、境界線を行き来出来るという以上のメタ認知を。

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