まあ、メシアンの作品が持っている音楽的な意義については、クラシック音楽の本や、ネット上でキチンとしたものが沢山語られている。なので、先日「ピアノと鳥とメシアンと」というアルバムを、歩きながら聴いた際に考えた、音楽論もどきな事でも書こうかな、と思う。お付き合い下さい。
「ディティールに神は宿る」という言葉は、正しい。
音楽的スタイルというのは、非常に重要だ。例えばメシアンなら、「移調の限られた旋法」や「不可逆的リズム」といった、いってみれば徹底して「足枷」を設けることによって彼の独自の音を作り上げている。
以前キース・ジャレットのところでちょっと書いたが、音楽があくまでパーソナルな部分に帰結するなら、そのための特異性を明確に打ち出すには、音楽を作る側に居る者は、何らかの制限を自分の中で設ける必要がある。
そしてそのルール上で細部にこだわらなければ、彼独自のものにはならない。それが「ディティールに神は宿る」ということだと思っている。
メシアンは「トータル・セリー(総音列技法)」という、現代音楽にとって重要な方法論の先鞭をつけたと言われる。が、その話を聞いたり読んだりすると、個人的にはなんだか違和感を感じてしまう。
それは、セリエリズムが行き着くひとつの到達点、コンピューターによるパラメーター設定での自動作曲が可能という事実が、音楽はパーソナリティとつながっているという考え方からは最も乖離しているからだ。
メシアンの音楽の志向とは、それは違う気がするのだ。
これは別にクラシックというジャンルの「現代音楽」にのみ当てはまる話ではない。「現代」の「音楽」全般に言えることだと思う。
ロックで言えば、テクノやエレクトロニカや、あるいは音響系と呼ばれるような音楽で考えると分かりやすい。多くの人に聴かれることを目的としている、音楽という表現の行き着く先には「匿名性」という大きな穴が待ち構えている。
この大きな穴へ落ち込むのを避けるためには、「音色」「旋律」「リズムの特異性」といったキーワードが大きな意味を持つと思っている。
メシアンはこの「旋律」と「リズムの特異性」を限定した。
限定した上での作品は、当然同じトーンを帯びる。彼の独自性はこのコンセプトを打ち出した時点でもう保障されていたと思う。
そして、そのアイディアの源泉のひとつが、譜面上の新しい理論などではなくて、自然に存在する旋律、鳥の声であること。ここが重要なのだ。
あくまで人間や自然と切り離され過ぎていない事、それこそが音楽がある種の感情的表現として聴く者に意思を伝えるための条件なのではないか、このアルバムを聴きながら、そんなことを考えた。
実はもっとすごい理論が浮かんだんだが、「あ、掴んだ」と思ってから、3歩歩いたら忘れてしまいました。やっぱり馬鹿は無理しちゃだめですね。
以上、2回にわたって御退屈様です。お付き合いありがとうございました。

1