ロジャー・ウォータースが「シドは天才だ」と言い切り、脱退しているにもかかわらず、その後のピンク・フロイドの存在に亡霊のように影響が見え隠れするシド・バレット。
実際にシドが在籍しているピンク・フロイドのアルバムは、しかしこのファーストアルバムしかない。
「ブリティッシュロックの深い森」の一部、60年代後半の英国サイケデリアの流れは、いつまで行ってもゴールが見えないどころか、極めようと思うとどんどん深みにはまるばかりだ。
正直自分はそんなに未踏のところまで行っちゃいないんだが、ある程度ランドスケープが見えてきただけでも、このファーストアルバム「The Piper At The Gates Of Dawn(夜明けの口笛吹き)」は他のサイケバンドとはちょっと何かが違っている気がする。
たとえば、歌のメロディ。自分の第一印象は「ヘンなメロディ」だった。なのに覚えやすくシンプルだ。「ヘンなメロディ」と感じるのは、メロディの最後が中間音で終わらないからだ。1コーラス最後の音程が完結していないような印象になるせいで、歌と演奏が独特の絡まりがあって切り離せない。
リズムも次のメロディに転換するのに数小節はみだしたり、足らなかったりする。
まあそれは単純に、聴いている方が「普通の曲」というセオリーに当てはめようと無意識にしているからなんだが、世の大抵のロックやポップスといわれている音楽はこのセオリーにのっているわけで、なんとも不思議な感覚になるのだ。
それにしても、この自由な発想は1966〜67年という時期を考えなくても、とてつもなく柔軟だ。
このままソロの枯れた方向に行かなかったら、つまり、シドがジャンキーでダメにならずにフロイドに在籍し続けていたら、サイケデリック〜プログレッシブロックの流れはかなり変わってきていたんじゃないかと想像してしまう。
通常の8分の8拍子では収まりきらない、詩と直結した音楽。変拍子のアプローチが他のプログレ勢とは立脚点から違うので、発展してもっと一般に浸透していたら今頃はどんなことになっていたのか、そう考えるととても面白い。
そういう意味では、やっぱりシドは「天才」なんだろうなぁと思う。
しかし、「Relics」等で聴くことができる初期のシングル曲に比べると、アルバムはきらびやかな印象は既に薄れている。どちらかといえばバンドの演奏、アンビエントではないが、いわゆる瞑想的、イメージを喚起するインストゥルメンタルな部分の比重が高くなっているような気がするのだ。これはセカンド以降、シドが脱退してからの方向性が萌芽しているとも見ることができる。そういう聴き方も面白かったりする。
ところで、自分が初めて聴いたこのアルバムは友人から借りたアナログの国内盤で、最後にセカンドシングル曲「See Emily Play」が追加で収録されていた。
当時スマッシュヒットした1曲があるだけで、アルバムの印象がまったく変わってしまうのだ。今どちらが好きかと言われれば、もちろんオリジナルのアルバムがいいが、入門編には昔の日本盤の方が確実にいいと思う。お暇な方は試してみることをお勧めします。

3