昨日聴いていた印象メモ その8
モンクの時に対極の例えとして「全身全霊のセンチメンタリティ」みたいな事を書いたが、別にアンチなわけではなくて、結構キース・ジャレットの音楽も好みだったりする。
むしろジャズの大勢がフュージョン化やファンク化していく70年代、完全即興でいわゆる「ベタなフリーのスタイル」に走らないという演奏姿勢は、まさに「孤高」な存在だし、とても惹かれるものがある。
繊細で優雅とさえいえるような美しいメロディ、しかもそれが完全即興というのは、やはり衝撃的だ。
この「ケルン・コンサート」を初めて聴いたとき、最初に思ったのは「ああ、こんな事やり続けてたら、この人早く死んじゃうなぁ……」だった。(まだ生きております、念のため)
別の言い方だったら、圧倒的な、あまりに圧倒的な自己主張。自分にとっては、そのくらいへヴィーな印象の音楽だった。まぁ、メロディが綺麗なんでBGMにして寝ちゃったりもできるんだが。
しかし、キース・ジャレットは、笑わない。
本人が、ではなくて、音楽が笑わない。そういう印象なのだ。
例えば、このアルバムの曲でいえば「PART U A」が一番明るい曲調だと思うが、美しくはあっても、いわゆるジャズピアノの「ウキウキ」する感じにはならない気がする。
シリアスな印象のジャズピアニストといえば、ビル・エヴァンスなんかも思い浮かぶが、キース・ジャレットほどガチガチな印象の人は、他にいないかもしれない。フレージング的に、シンコペーション「感」が少ないせいなのか?それともこのクワンクワンしたピアノの音色のせいなのか?う〜ん、ちょっとわからん。
それにしても、ソロピアノ、しかも完全即興という形態は、本人の体調、モチベーション、楽器のコンディション、会場の雰囲気(音響・聴衆含む)、季節などに非常に大きく左右されるはずだ。
そんな状況で、これだけの演奏をして、それを録音できたというのは、すごい事だなぁと思う。
そして、それにキース・ジャレットの圧倒的な創造への意志を感じるのだ。
音楽というものは、「個」にどれだけ共感できるかどうかが重要だ。
演奏自体は、本人も「神から届けられたものだ」と語っているが、キース・ジャレットが、その時、その瞬間に感じたものをピアノを通して外部に発信しているわけで、それを聴くという事は、演奏者が何を感じたのか知りたいと思い、共感しようとする事と同義なのだと思うのだ。
だからこそ、それは最終的にはパーソナルなところに収斂していくものなのだ。
そして、共感できた部分が多い音楽が、自分にとっての「いい音楽」なのだと思う。
「私は「芸術」を信奉しない男だ。その意昧で私はアーティストではない。私は私が生まれる前に存在した音楽というものならある程度信ずる。その意昧で多分私自身はミュージシャンとはいえない。私は人生を信じない 」(キース・ジャレット)
俺も人生なんか信じてないよ。ああ、だからこのアルバムは「いい音楽」なんだな。

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